【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

読んで字の如し〈木ー1〉「橋」

2011-01-29 18:01:25 | Weblog
「板橋」……板製の橋
「前橋」……以前ここは橋だった
「永代橋」……壊れてはいけない
「京橋」……京の橋
「日本橋」……江戸と大坂以外の人間にはどちらがどちらかすぐごっちゃになる
「瀬戸大橋」……瀬戸内海全部を覆うくらい大きな橋
「剣橋」……ケンブリッジ
「橋本」……橋に関する書物
「陸橋」……橋の両端は陸にあるのがふつう
「水道橋」……水道管でできた橋
「ラーメン橋」……ラーメンでできた橋
「沈下橋」……上下動ができる橋
「危ない橋を渡る」……板が穴だらけ
「石橋を叩いて渡る」……叩きすぎたら壊れる
「橋がなければ渡られぬ」……大井川の立場がない
「橋渡しをする」……橋なのか渡しなのか、はっきりしてほしい

【ただいま読書中】『青函トンネル ──夢と情熱の軌跡』黒澤典之 著、 日本放送出版協会、1983年、1300円

函館に行ったとき、青函連絡船記念館で洞爺丸遭難のことを詳しく知ることができました。そして、昔から青函トンネルが悲願となっていたことも。
本書はその洞爺丸遭難で始まります。1954年(昭和29年)9月26日台風15号「マリー」は、客貨船の洞爺丸と第11青函丸、貨物船の日高丸・十勝丸・北見丸を沈め、1430人を死亡させました(タイタニックに次ぐ世界海難史上第二の惨事だそうです)。
時はさらに遡ります。戦前の鉄道省には「三ホラ」と呼ばれる奇人がいました。その一人「ホラ弥寿」こと桑原弥寿雄が青函トンネルの“出発点”なのだそうです。桑原は昭和7年東京帝大工学部を卒業して鉄道省に入り新潟で測量をやっていました。昭和13年に中国に出征しますが、徴兵されて工兵部隊に配属されたのではなくて、民間人の修理屋がワンセット丸々国内で徴用されて派遣されて、中国軍に爆破された鉄橋修復作業にあたったもののようです。帰国後「ホラ弥寿」は、朝鮮海峡トンネルを唱えます。東京から関門トンネルを通って、そこから対馬トンネル・朝鮮トンネルで釜山に上陸、モスクワまでつなぎそこに「新幹線(弾丸列車)」を走らせようと。で、北へは青函トンネル・宗谷トンネルで樺太に上陸、間宮海峡は埋め立てて横断、シベリア鉄道に接続するのです。さらにはベーリング海も島伝いにつないで、アメリカとも直結しようという夢です。いやあ、すごい。(ついでですが、関門トンネルは昭和11年着工、下り線は17年6月に完成しています) 戦争中は壱岐海峡の地盤調査を行ない、終戦後にはすぐ北海道に渡って青函トンネルの地表調査を開始しています。昭和44年に調査斜坑工事が行われている最中に桑原は脳溢血でなくなっていますが、トンネル完成を見たかったでしょうねえ。
空襲で青函連絡船が全滅したため、終戦後しばらく北海道は孤立状態となっていました。そこからトンネル計画が浮上しますが、GHQはトンネル計画中止を命令しました(昭和24年)。昭和30年には宇高連絡船の衝突沈没事故(紫雲丸事件)があります。国鉄では海難防止の願いが強まり、国鉄では正式に調査委員会を発足させました。
津軽海峡は、地盤が軟弱なところが多く、さらに深度がありすぎて技術的には海底トンネルを掘ることは不可能に思えました。ところが海底地質図を作っていくと、ちょうど馬の背のように盛り上がった部分が海峡を縦断していることがわかりました。今から2万年前、氷河時代に北海道と本州をつないでいた「津軽陸橋」のあとです。かつてそこをナウマン象が北へ渡っていきました。温暖化によって海底に沈んだその陸橋の下だったらトンネルが掘れるのです。昭和38年、正式に「ゴーサイン」が出ます。
調査坑(のちに先進導坑と改名、完成後は換気や排水に使用)・作業坑(本坑の工事用、完成後は保守点検用)・本坑(鉄道の本トンネル)の同時進行で工事をするのですが、そのどれも大変な苦労の連続でした。工事現場だけではなくて、工事をする人たちの生活(重油や水の確保など)も大変だったのです。トンネルの現場では、そこが海底でも「ヤマ」と呼びます。「ヤマに亀裂が多くなっている」「ヤマに押されて、矢板がギシギシ鳴っている」「ヤマに水がついている」……そして、山鳴り……「水が出た!」。排水ポンプの能力が45トン/分に対して、毎分85トンの出水。トンネル内の水際線がどんどん前進してきます。ポンプ座が水没したら、トンネル全体が水没するでしょう。対策は? はらはらしながら読みますが、もちろん、青函トンネルが完成していることを私たちは知っているから、この異常出水が結局は止まったのは確かなことです。詳しいことは本書をどうぞ。結局作業坑が3015メートル、本坑が1493メートル水没したところで事態は収束しました。関係者は皆はらはらドキドキだったでしょうね。半年後、ポンプは毎分98トンまで増強され、掘削作業が再開されています。
現場で働いていた人も紹介されます。皆が皆トンネルに熱意を燃やして集まったわけではなくて、たまたま漁師をやめてトンネルマンになった人もいます。工事の基地となった町は、一時的な活気に湧きますが、工事が終わるとまた過疎の町に戻ってしまいます。その寂しさも描かれます。トンネルは様々な人生を運びますが、様々な人生を振り回してもいるようです。
本書の最後は、ドーヴァートンネルです。1982年に著者は英仏へ取材に出かけます。まだヨーロッパはEC、飛行機はアンカレッジ経由の時代です。こちらのトンネルはなんと19世紀、検討は1802年に始まり、ナポレオン三世の時代に具体的な計画が練られ、1882年には英仏両方で1マイルずつ調査坑が掘られています。コンクリートで防水する前の時代の話です。ただし、トンネルを通って軍隊が侵攻することを(英仏両方が)恐れて計画は中止。20世紀後半に再開されますがこんどは英国の経済が悪化して中止。著者の訪欧は、ちょうどまた計画が再燃していた時期でした。なんとも息が長い話です。
丹念に取材をして構成された本です。ただ、残念ながら“料理”があまりされていません。“材料”の味をそのまま味わうのならそれで良いのですが、もうちょっと美味しくできたのではないか、という点が残念です。