私は一時「子ども」と書いていましたが、やはりどうもしっくりこないので現在は「子供」と書いています。「供」という字が「子」に対して差別的、という主張に一時は「そうだよね」と思っていたからですが、今では「そうだよ、それで?」に変ったのです。「そもそも大人と子供は平等ではない」と。親権とか法的保護者とか、どう見ても平等ではありませんし、むしろ平等ではない方が子供の身の安全度は高まる(成長に専念できる)と考えています。それと、もしも大人と子供を完全に平等にするのなら、変えるべきは「漢字の表記」ではなくて「扱いの実態」の方だろう、とも。
むしろ私が最近気になっているのが「お供」ではなくて「お伴」です。たとえば音楽の「伴奏者」。音楽の構成要素(あるいは演奏者)として対等でしかるべき関係が片方が「お伴」扱いというのは失礼ではありません? たとえばバイオリン演奏にピアノ伴奏、なんて言い方をしますが、それをばらしたらどちらの演奏だけでも不完全な曲になるはずです(そもそも「メロディが一番エライ」って誰が決めました? よしんばメロディがエライとしても「内声にもメロディがある」とは思いません?)。
ということで、もし「人間の関係はすべて平等であるべきだ」と言うのだったら「伴奏者」を「協奏者」と言い換えていくべきでは?なんてことを私は今思っています。私はやりませんけどね。「すぐれた伴奏者」がいかに貴重な存在か知っていますし、音楽の場で「伴奏」ということばはただのレッテルだと思っていますから、敬意をもって“伴奏者”のお伴、もとい、音も味わいます。ただし、優れた曲の優れた演奏の場合には、ですが。
【ただいま読書中】『ダンスは国家と踊る ──フランスコンテンポラリー・ダンスの系譜』アニエス・イズリーヌ 著、 岩下綾・松澤慶信 訳、 慶應義塾大学出版会、2010年、2800円(税別)
序文はこう始まります。
「ダンスは謎めいた冒険である。ダンスは定義づけから逃れる。もしかしたら幻影にすぎず、視覚の混乱なのかもしれない。ダンスという出来事が起きるときの、観客の鋭いまなざし。しかし、正確には何が起きるのか。舞台袖がざわめくえも言われぬ瞬間は、不意に、天使の通過を想い起こさせる。沈黙。」
ランボーの詩を私は思い起こします。そして、著者はこのような言語リズムでダンスも律しているのか(あるいはその逆か)とも思います。私自身はダンスには何の素養もない人間ですが、この出だしを読んだだけで本書を読む気になりました。
著者にとってダンスは「非言語の詩の形式」です。現在の西洋社会では、ダンスは芸術または娯楽です。歴史書では、「原始的なダンス」には宗教的役割を与え、「いわゆる西洋的なダンス」は形式にのみ注目しようとしています。しかし本書の著者は、その分類に疑念を呈します。身体の演出は現行のイデオロギーの教示である、と。キリスト教では「原罪」「神に似せた肉体」「腐敗する肉体」「不滅の霊魂」の考え方から、ダンスは肉体に潜む精神の動きの表現となりました。しかしそこには「狂宴(サバト)への誘惑」もあります。それゆえ中世にはすべての身ぶりに「秩序」が求められ、それが「振り付け」になっていきました。聖職者も加わった「都会のダンス」では、「田舎のダンス」(集団的な肉体)は拒絶されます。
ルイ14世はダンサーとして舞台に登場しています(役は「昇る太陽」)。ルイ14世は優れたダンサーであるだけではなくて、フランスのダンス教育の基礎を作りました。さらに、軍隊と同様の「一人の指揮官と多数の兵士」といった構造をダンス団に構築します。「共同社会」ではなくて「個人と集団」というイデオロギーがダンスに反映し、クラシック・バレエは「中央集権」を表象しているのです。
いやあ、ひりひりするように刺激的な考え方です。そういえばイギリスでは伝統の「モリスダンス」が「非キリスト教的である」として教会によって迫害されましたっけ。これもおそらくフランスと同じような発想からでしょう。
中央集権ではない、連邦制を敷く国(USAとかドイツ)では事情が異なります。フランスや(フランスからクラシック・バレエを輸入した)ロシアとは違うモダン・ダンスが発生します。その基礎を作ったのは、デルサルト(歌と演劇出身。アメリカ人の弟子がデルサルト主義をアメリカで広めました)とジャック=ダルクローズ(音楽家。リトミックの創始者。ドイツを中心に興隆)の二人でした。
身体運動は分析・記譜され、肉体のトレーニングが科学的に行なわれます。モダンダンスは他の分野(演説での身ぶり、人間工学、パラシュート舞台のための降下法など)に強く影響を与えながら、発展していきます。様々な振り付け家が貢献をしていますが、本書で特筆されているのはアメリカのマース・カニンガムとヨーロッパのピナ・バウシュです。この二人によって、モダンダンスは大変革をし、それまでのダンスの伝統の枠から飛び出したのです。
しかし……ダンスの理論面の説明にデカルト、ゲーテなどが出てくるのはまだ「イデオロギー」の点でわかる気がしますが、アインシュタインまで登場すると「ダンスに相対性理論の影響?」と言いたくなります。
フランスのダンス変革は、1970年代に始まり80年代に花開きますが、そこには多くの日本人の名前が上げられています。著者にとって「日本」はけっこう重要なキーワードのようです。またフランス政府(文科省)はコンテンポラリー・ダンスの助成を行ないました。それは素晴らしい文化政策に見えますが、本書ではその“裏側”が探られます。「ダンスは権力を表現する特別な技巧なのである」と。この辺はフランスにいてその時代のシャワーを浴びないと感覚的にわからないものかもしれません(少なくとも私にはわかりませんでした)。たとえばヒップホップに国家助成が行なわれ“牙”を抜くことで社会の枠組みの中に制度として位置づけられた、とあるのですが……「ヒップホップに国家助成」自体に私は驚きを感じてしまいます。そして90年代にコンテンポラリーダンスは当たり前のものとなり増大する観客の圧力によって「規格化」が行なわれます。観客に受入れられること・振付家が振り付けを行なうこと・教育や訓練が行なわれること・“過去”の蓄積、などが「規格」になっていくのです。
そして「未来」。それについて本書は沈黙をします。ただ「脱構築」では新しいダンスの未来は開かれないだろう、と示唆しているだけです。
かつて日本でも、ダンスは人々と密着していました。武士は能、庶民は盆踊り。で、今は? そして、未来は?