今の日本は「王手飛車」をかけられたような非常に困った状態、と言えるでしょう。で、「ヘボ将棋、王より飛車をかわいがり」という言葉がありますが、菅首相を降ろすことは、「飛車を逃がすこと」なのかそれとも「王を守る」ことか、どちらなんでしょう? もちろん首相は「王」ではありませんから「飛車」なのでしょう(「そこまで大切な駒ではない」という意見があるかもしれませんが)。で、「飛車」を捨てて守る「王」って、一体何なのでしょう。「野党」の人たちに聞いてみたいなあ。というか、飛車を捨てることに夢中になるだけではなくて、「王」を守って下さいよ。今大切なのは、難局を乗り切ることなんですから。
【ただいま読書中】『牧夫の誕生 ──羊・山羊の家畜化の開始とその展開』谷泰 著、 岩波書店、2010年、3400円(税別)
動物考古学によって、野生動物の家畜化はまず羊・山羊が先行し、その最も古い証拠は、西アジアのレヴァント地域(シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルあたり)から肥沃な三日月弧地帯にかけて、紀元前7000~6500年ころ、とされています。著者は西アジア・地中海地域で羊・山羊の群れに牧夫がどのように介入しているかを二十数年フィールド観察し、その知見に動物考古学のもたらした事実を合わせることで、西アジアでの家畜化の開始からそれ以後の管理技法がいかに成立したかを再構成しようとします。
のっけから(私にとっての)新事実の“ジャブ”が続きます。家畜の群れにオスはほとんどいないこと。家畜は野生よりもさかりの時期が長引くので生殖管理のためのテクニックがあること。搾乳とは実に不自然な技法であること。
羊・山羊の家畜化は丘陵地で開始されましたが、その時期(先土器新石器文化Bの中後期)は、低湿地で行なわれていた麦農耕が丘陵地で行なわれるようになった時期でもあります。時と場所が一点でクロスします。
ナトゥーフ遺跡で出土するガゼルの骨に興味深い変化が見られます。この時期以前には雄雌が半々だったのが、この時期の少し前から雄の骨が圧倒的に多くなるのです(しかも年齢分布は野生の群れと同じ)。これは、追い込み猟によって群れを柵に入れ、群れの再生産に必要なメスは逃がし、雄だけ選別して食べていたことを意味する、と著者は述べます。すると、群れを望む方向に誘導するテクニックが存在していたはずです。そして、先土器Bに劇的な変化があります。それまで出土する骨のほとんどを占めていたガゼルが激減し、そのかわりに羊・山羊の骨がほとんどとなるのです。
人間によって囲われた野生の群れは、折あれば脱走しようとします。しかし、そこで生まれた二世は、傍に人間がいることに慣れており、さらに「そこ」が自分のホームレンジです。それでも親が逃げたらついていくでしょうが、では三世になったらどうでしょう。おそらくこうして「家畜」が誕生したのでしょう。
現代の家畜の群れで、成長を終えた雄はただの徒食者です。だから種付け用を除く雄のほとんどは、1歳半~2歳でされます。これはたとえば紀元前1000年期のバビロニアでも同じでした。また、神殿に捧げられたのもほとんどが雄です。メスは資本財、オスは流通財なのです。さらに、人間としては、毎日草を運ぶ手間を省きたい。だったら、自分で食べに行って夜は帰ってくるようになってくれたら助かります。著者は、はじめは柵から脱走した家畜で、近くをうろうろして人の住処から離れようとしない個体の発見が、「日帰り放牧」の始まりだっただろう、と推定しています。
さらに、紀元前5000年紀ころから、それまで3~4歳でされていたメスの年齢が後ろにずれ始めます。同時に、皮革製品の生産より毛織りが増加します。これは「搾乳」の開始による(動物をなるべく長く生かして利用する)、と考えられています。では、自分の子にしか授乳を許さない(乳腺が開かない)メスが、どのようにして人間の手による搾乳を許すようになったのでしょう。
非常に興味深い本です。一方に「形のある過去」(遺跡や出土品)、他方に「形のない現在」(家畜の性質や行動、牧夫の行動(群れへの介入))を置き、その両者で挟み込むことで「形が残っていない過去」(動物の家畜化の過程、当時の人間の行動)を浮き彫りにしようとするのですから。もちろんこの手法で、「過去」が100%正確に再現できるかどうかの保証はありません。ただ、「過去の人の生活」を立体的に蘇らせるのには良い手法だと私は感じます。「形のある過去」だけで過去を論じるのは、私には平面的な解釈に感じられていたものですから。そして、著者の手によって蘇る「過去」は、とても説得力のある世界です。「形のあるもの」と「形のないもの」がバランス良く揃っていますから。そしてそこに見えるのは、動物と人の相互作用です。それぞれがお互いに影響を与えながら変化をして、現在の「家畜(と牧夫)」が存在しているわけですが、遠い過去はたとえ見えなくても、何らかの“残照”として残っているはずです。それを手がかりに、動物と人の変化の過程を少しずつ過去へと戻していった本書は、静かな知的興奮の書、と言って良いでしょう。