【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

読んで字の如し〈門ー1〉「問」

2012-05-12 15:44:39 | Weblog

「拷問」……手で考えて問う前に……頭で考えたら?
「問題」……お題を問う
「異端審問」……線分のどちらの端が正しいかの言い争い
「疑問」……疑わしい問い
「問屋」……扱い商品は問い
「蒟蒻問答」……コンニャクの味付けについての一問一答
「学問に王道なし」……賢者の道や愚者の道ならある
「慰問袋」……答えたら慰めになる問いが一杯詰まっている袋
「訪問看護」……訪れて看護は要りませんかと問う
「四色問題」……この世のすべては四色で表現可能か、という問題
「問題作」……これを作ったのは問題さんです
「不問に付す」……でも記憶には残る
「自問自答」……知的自慰
「世に問う」……2ちゃんは避けた方が……
「問い合わせ」……答え合わせの前段階

【ただいま読書中】『見て見ぬふりをする社会』マーガレット・ヘファーナン 著、 仁木めぐみ 訳、 河出書房新社、2011年、2000円(税別)

 エンロン事件の裁判で、裁判長は法律上の「見て見ぬふり」の概念である「故意に知らぬふりをしていたが、知り得る立場にいて、当然知るべきだった事実について責任がある」を適用しました。「知る機会」と「知る責任」があったのにそこから(意図的に)逃げた場合、法律の下では許されないのです。
 法律は「なぜ知ろうとしなかったか」は無視します。しかし著者は“それ”が気になります。「9・11」「金融危機」「フクシマ」……(災害以前に知り得なかった情報が後から出てくる“後知恵”ではなくて)これらの“災害”の“前”に公開された“情報”があったのに無視されたのはなぜか。特定の個人を責めるという“簡単な手法”ではなくて、そういった個人の行動の裏に存在する(そして放置され続けた)「手順や姿勢の重大な問題点」は何か、それこそが問題だ、と著者は言います。
 人はなじみのあるものが好きです。自分が良く知っているもの・自分をよく知っているものに囲まれた、安全で安心できる世界を快適と感じます。“それ”が「見て見ぬふり」の“土壌”です。
 「見て見ぬふり」の“宝庫”は、たとえば結婚(離婚)カウンセラーのオフィスです。あるいは、DVや児童虐待を扱うところ。そこでは、無知や臆病などではなくて、実存的な恐れからの「見て見ぬふり」があることが、豊富な事例から紹介されます。さらに脳科学や認知神経科学などの研究結果も次々引用され、「見て見ぬふり」が、特定少数の人間の特殊な状態ではなくて、実は「我々」がすべて普遍的に持っている資質によって引き起こされることが穏やかに指摘されます。
 実験や研究だけではなくて、実例も次々登場します。粉飾決算をする会社、アスベストに汚染された町(これはアメリカの話ですが、私は水俣を連想します。“構図”がそっくりなのです)、大事故になることが明白な命令に従う軍人、カルト、バブル、犯罪や悲惨な事故のすぐそばでの“傍観者”……
 生理的な現象もあります。過労や睡眠不足は、人から集中力や判断力を奪います。この場合は「ふり」ではなくて「見ていても自分がなにを見ているのかの認識ができなくなる」わけで、重大な事故が起きやすくなります。
 特に私が強い印象を受けたのは、「同化」でした。個人が重視されるはずの西洋文化でさえ、「同化」の影響力は恐ろしいほどの威力があります。その圧力の下では、完全に間違っていることが明白な選択肢でさえ、人は選んでしまうのです。「同化」を続けるために。
 よく「自由にものが言えないのは、日本の風土」といったことばを聞きます。しかし、「見て見ぬふり」が欧米にもしっかり文化的に存在していることを本書で知ると、単に「日本文化」とか「日本社会」だけの特異性と言って片づけてはいけないと私は感じました。「文化」とか「社会」のせいにするのではなくて「私個人」がそんな“本質”を持っていること、そのことに対して「見て見ぬふり」をしていてはいけない、と。著者も「まず疑いを持つこと(批判的思考)」を勧めています。特に「心地よさ」を疑え、と。そしてもう一つ、勇気も必要です。これまたなかなか大変です。同化圧力に逆らうことは、孤立を意味しますから。