音声認識ソフトがどんどん進化していますから、パソコンなどのパスワードも音声で簡単にすませる時代がもうすぐでしょう。単に「山!」「川!」だと、その様子をひそかに録音されて防壁を破られるかもしれませんから、たとえば画面に簡単な単語を表示してそれを読み上げさせて「その人個人の声である」ことを声紋認識する手法と併用、なんてのはどうでしょう。
【ただいま読書中】『名張毒ブドウ酒殺人事件 ──六人目の犠牲者』江川紹子 著、 岩波現代文庫/社会213、2011年、1100円(税別)
「名張毒ブドウ酒殺人事件」を見て私が思い出したのは「王冠の歯形」という単語です。詳しいことはまったく記憶にないため、読んでみることにしました。
三重県と奈良県にまたがる(というか、もともとは一つの集落だったのが、廃藩置県の時に県境で二つに分けられた)葛尾(両方合わせて25戸)で、1961年(昭和36年)に惨劇が起きました。年に1回のの集会(総会と宴会)で、男は日本酒女はブドウ酒で乾杯をした直後、ブドウ酒を飲んだ女性たちが次々倒れ、5人が死亡重軽症11人となったのです。現場は大混乱となり、証拠保全はほとんど行なわれませんでした。
取材合戦は加熱し(現在のメディアスクラムよりえげつないことを平気でやってます)、警察は「内に犯人がいる」という見立てで次々住民を責め立てます(総会の責任者は「自分が全責任を負って“白状”しようかと思う」ところまで心理的に追いつめられました)。とうとう、奥西勝という男性が逮捕されますが(三角関係を解消するために、の多くの女性ごと自分の妻と愛人を同時に始末しよう、が動機)、異例なことに、逮捕直後に警察は報道陣と記者会見までさせます(要するにさらし者)。裁判が始まりますが、奥西は弁護士さえ頼んでいませんでした(誰もその手続きを教えなかったのでしょうか?)。見かねた看守がこっそりと弁護士の名前を数人教え、奥西はその中から適当に一人に依頼をします。依頼を受けた長井弁護士は「これは絶対無罪が取れる」と確信します。
ところが……裁判が始まって奥西が犯行を否認すると、の人たちは「奥西が犯人に違いない」という調書を一致団結して提出しました。捜査段階とはまったく違う証言もその中には含まれていました。(先日読んだ『見て見ぬふりをする社会』での「集団の和」を最優先するための行動、と捉えることができそうです) さらにはそういった証言の整合性を取るための“関係者”全員が集合しての話し合いまで堂々と開かれています。そこでの主要なテーマは「誰が犯人か」ではなくて「誰が犯人だったらは一番平和か」です。著者の解説を読むまでもなく、この「証言」たちの矛盾は明かです。しかし、そういったの態度は、警察の“利益”とも一致します。
このへんで私の背筋は冷たくなります。警察ととが“一致団結”して「証言」を構築したら(そしてその「システム」と合わない証言は裁判に提出しなかったら)、たとえ物証がなくても証言の変遷が不合理でも、「有罪」は確実だ、と。
ここでちょっと寄り道。「和歌山毒カレー事件」でも、直接証拠はいっさいなくて、状況証拠だけで死刑判決でしたね。「真犯人が見つかって良かった」とほっとして、良いのかな?(これは単なる「懐疑主義」の態度ですが)
さて、一審では被告無罪判決。検察は懸命な“努力”をし、重要証言が変転し、二審の判決は死刑。真実を述べたと思われる証言と物的証拠で判決を組み立てるという厳しく苦痛に満ちた道程よりも、多くの人間が満足できる「ストーリー」に沿った物語を組み立てる、というやり方を検察と裁判官は選択した、と私には見えます。被告は最高裁へ上告。最高裁は門前払い。
ここで弁護士は、一つの実験を行ないます。毒殺に使われたニッカリンTという有機リン系の農薬は赤く着色されていました。それを白ブドウ酒に入れたらどうなるか。さらに被告が歯でこじ開けたという王冠にどのような傷がつくかの実験も(裁判では王冠の「写真」が鑑定材料として使われていました。そもそも現場には掃除がされていなかったために過去の宴会で使われた王冠が数多く落ちていて、警察はその内の一つを「これが適当」と“証拠”にしたのですが)。残る死刑の根拠は「十分間被告が一人で現場にいた(その間に毒をブドウ酒に混ぜた)」だけとなりました。十分間一人でいたら“真犯人”です。の人々はその「十分間」を作り出すために一致団結して自分たちの行動に関する証言を固めましたが、弁護団が再現実験をすると、どうやっても被告は誰かとすれ違ったり一緒になったりしてしまうのでした。
再審請求は棄却。「それなり」が大活躍をする棄却理由でした。こういう文章を平気で書く人たちの顔を一度拝んでみたいと思います。しかし、「それなりの理由」で死刑にされる人は、たまらないでしょうね。
弁護団はあきらめません。製造中止になった王冠を復元して、開栓実験です。さらには、使われた毒物が検察が主張するニッカリンTではないことまで突き止めてしまいます。再審請求はついに通りました。
そして2006年名古屋高裁は、「新しい証拠は確かに可能性はあるが、それでも過去の判決は間違ってないもんね」と再審開始決定と死刑の執行停止を取り消しました。「裁判に一般国民の視点の導入を」という運動には、本当に意味があるかもしれない、と思えます。一般国民は、先輩裁判官のメンツなんか考えなくても良いですから。ただそのためには、再審の審理とか高裁レベルにも裁判員を入れなきゃいけないのですが。プロがまともに仕事をするのなら、国民がそんな負担を強いられなくても良いんじゃないかな、なんて不遜なことを言っても良いですか?