日本のロケットが初めて外国(韓国)の人工衛星を乗せて打ち上げに成功しました。めでたいことですが、そもそもH2Aロケットの成功率は、商業利用が成り立つ95%とは言っても、まだ分母は20だから1発失敗したらがくんと成功率が落ちる段階。「商業」として確立するためには、まだまだ“実績”が数多く必要そうです。
ところで北朝鮮は「人工衛星を弾頭に変えたら、ミサイルじゃないか」と文句を言わないのでしょうか?
【ただいま読書中】『アメリカ大統領が死んだ日 ──1945年春、ローズベルト』仲晃 著、 岩波現代文庫、2010年、1300円(税別)
1944年、アメリカ大統領フランクリン・ローズベルトの健康状態は、主治医のマッキンタイヤー海軍軍医総監(耳鼻科)によると「ほとんど問題なし」でした。しかし、同年3月(大統領になってから初めての(そして最後の)健康診断で)の血圧は185/105、8月5日に軽い心筋梗塞、11月には血圧が260/150。マッキンタイヤーの部下、心臓病の権威ブリューン海軍軍医少佐は執務制限をしようとしますが、上司と戦局がそれを許しません。1945年2月ヤルタ会談の席でチャーチルの主治医モラン卿はローズベルトを見ただけで「余命3箇月」と判断します。しかし、アメリカ側は、主治医も大統領もそれ以外のほとんどの人も、そういったことは知りませんでした(あるいは、見て見ぬふりをしていました)。
ローズベルト、副大統領のトルーマン、マッカーサー元帥など「重要ポストにいる人物たち」のそれぞれの「好き嫌い」の人間関係が、戦局や大統領選挙に影響を与えていました。外交では「共通の敵(ドイツ)」によってかろうじて結びついているスターリンとの関係が難問となっています。ローズベルトとスターリンの電報のやりとりを読むと、外交や政治というのは本当に大変だ、と思わされます。軍事的にドイツの敗北は決定的ですが、“その後”について連合国軍各国の思惑がみごとにばらばら、さらにアメリカ国内でも意見の対立がある状況で、日本との戦争はまだまだ続きそうです(4月1日に米軍が沖縄に上陸。まだ「本土決戦」が残っていると見られていました)。ここからどうやって“最善解”を導き出せばいいのでしょう。それを思うだけで血圧が上がりそうです。
39歳でポリオにかかったローズベルトは、温泉治療を受けるためにジョージア州ウォーム・スプリングズに滞在しました。ローズベルトはこの地が気に入り、質素な山荘を建てました。ヤルタで疲労困憊したローズベルトは、静養のために1945年3月末からこの山荘で過ごしていました。そして4月12日脳出血が大統領を襲います。
その瞬間その部屋には何人かの人間がいました。公式の記録には残っていませんが、そのうちの一人は、大統領の愛人でした。しかも興味深いことに、長女のアンナがその存在を公認(さらには後押しさえ)していたのです。そこには第一次世界大戦時代からの面白い人間ドラマがあるのですが、興味を持たれた方は本書をお読みください。単純な不倫物語ではありませんから。
大統領の急死は“想定外”でした。たとえば副大統領トルーマンに重要な事柄がいくつも伝達されていませんでした。その代表がマンハッタン計画。あるいはヤルタ協定の詳細。あわただしく大統領に就任したトルーマンは、原爆をどう使うか、ソ連との関係をどうするかを大急ぎで決定しなければならなくなったのです。
日本では1週間前に鈴木貫太郎内閣が発足したばかりでした。日本のマスコミはローズベルトの急死を抑制的に報じます。面白いのは、海外向けの放送では「弔意」を表していることです。これも一種の外交メッセージだったのでしょうか。ヒトラーが示した態度(ローズベルトの死を祝う)と日本の“武士道”の対比は、多くの人に感銘を与えました。戦局には影響はありませんでしたが。メッセージは相手に伝わるように言わなければ伝わらない、ということなのでしょう。
こうして「車椅子に乗って巨人」は去り、「戦後」が始まりました。それに気づいていない人(代表は日本の軍人たち)もいましたが。そして、今でも「戦後」は続いています。それに気づいていない人もやはりいるようですが。