【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

愛情不足

2012-05-24 19:48:11 | Weblog

 大阪維新の会の「発達障害は親の愛情不足が原因」という条例を見て思ったことがあります。何でもかんでも「親の愛情不足」で片付けようとする人は、その人自身が「親の愛情不足」を感じているのではないか、と。強く実感しているからこそ、世界を“その色眼鏡”で見る傾向があるのではないかな。ただし、その人が子供の時に親の愛情不足にさらされたのか、あるいはその人が親として愛情不足で生活しているのか、まではわかりませんが。

【ただいま読書中】『〈通訳〉たちの幕末維新』木村直樹 著、 吉川弘文館、2012年、2800円(税別)

 ポルトガル人が追放されて鎖国が始まりました。オランダ人と交渉するために「オランダ通詞」が存在しましたが、では彼らは何語を使ったのか?と著者は問いを立てます。もちろんオランダ語、と言いたいところですが、実際には「オランダ語を使うオランダ通詞」は初めは少数派で、ポルトガル語(東南アジアでの“共通語”)を用いるオランダ通詞の方が多かったはず、だそうです。
 17世紀末に「オランダ通詞」の実力はどん底となります。そこにやってきたのがケンペル(ドイツ人)。彼は自分の小間使いとして働く「内通詞」の一人を教育し「オランダ語が(ある程度)使えるオランダ通詞」として育てました。以後少しずつオランダ通詞の実力は向上し始めます。
 長崎通詞の業務は色々です。オランダ人入出港や貿易に伴う文書処理・出島(オランダ人の生活)の管理・オランダ商館長江戸参府に同道など、通訳だけすればよいというものではありませんでした。また、大商人が集結する長崎は、九州諸藩が金策に集まる場所でもありました。通詞は、国際的な情報という強みを持っていますから、当然その中で重要な役割を果たしていたはずです。ただし身分は長崎現地採用の「地役人」。二本差しは許されず、もちろん幕臣でもない軽輩でした。
 通詞の日常生活に関しては、あまり詳しい記録が残されていません。司馬江漢が長崎で通詞の吉雄耕作宅に宿泊していますが、部屋には椅子や舶来品が並べられ、朝食には小鳥を焼いてバターをつけたものや山羊の醤油焼きがでて「皆何にもかもおらんた風なり」と感心しています。
 寛政の改革で松平定信は通詞たちの統制を強化します。しかし、やがて定信は退陣、同時期にロシア人が根室に来航したりして、通詞たちの活躍が求められるようになりました。文化五年(1808)2月、幕府はオランダ通詞にフランス語(当時の国際語)習得を命じます。同年8月フェートン号事件が勃発。11月に幕府は、唐通事に満州語、オランダ通詞にロシア語と英語を学ぶよう命令します。通詞は他言語への対応を(それもマルチに)求められるようになったのです。通詞たちはオランダ商館長から英語を学びますが、やがてこの“英語熱”は下火になっていきます。ネイティブスピーカーがいないし、実際に使う機会がなければ学ぶ意欲も薄れますよね。
 通詞の活動の場も、長崎だけではありませんでした。江戸の天文方(地図作成や暦の改変など、西洋技術の拠点)に詰めることも任務でしたし、ロシアとの紛争解決交渉のために蝦夷地に派遣される通詞もいました。弘化四年(1847)からは外国船来航に備えて江戸に来ている通詞が浦賀に長期派遣される制度も始まりました。ただ、ここで、通詞と浦賀奉行と勘定奉行の間ですれ違いというか摩擦というか、いかにも官僚主義的な妙なやりとりがあるのが笑えます。
 シーボルト事件では多くの人が処罰されましたが、その中に多数の通詞も混じっていました。そのせいか「学問ではなくて、通詞としての職責に専念」という萎縮のムードが生じます。しかし、蘭学はブームとなり、外国からの日本への圧力も高まります。嘉永四年(1851)に長崎では英和辞典の編纂も始まっていました。そしてついにペリー艦隊が浦賀沖に。真っ先に艦隊に近づいた番船には浦賀詰めの通詞堀達之助が乗っていて、“英語”で「私はオランダ語を話すことができる(I can speak Dutch.)」と言ったのでした。
 ただし、英語ができる(単語レベルででも英語がわかる)通詞は少数でした。それが難しい外交交渉をさらに難しくします。そこで、唐通詞(アヘン戦争などのからみで、欧米列強は中国人通訳をよく同行させていました)や帰国した漂流民(ジョン万次郎がその代表)なども“活用”されるようになります。
 仕事も増えました。オランダ政府は幕府との取り決めで「海軍伝習」を始めましたが、授業は当然オランダ語。したがってオランダ通詞の出番がまた増えました。通詞の絶対数が足りないのですから当然増員や新規採用が考えられます。身分社会に守られていた通詞の世界にも“外”から風が吹き込んでくるようになりました。日本だけではなくて通詞の世界にも“開国”があったようです。そして、海外への使節団に通詞たちが同行します。しかし、慶応年間くらいから「通訳」と「翻訳」の分業が始まります。「学問」の世界から参入した人たちは「翻訳」の方に興味を持っていました。
 明治政府になっても、各地で活躍する通詞たちは“お役ご免”にはなりませんでした。ただし、一人一人の足跡を見ると、外交に関わった者は少なく、新しい制度や技術の導入の方に熱心な人が多い印象です。「地役人」として「現場」に密着した仕事が好きな人が多かったのかもしれません。
 「維新」というと有名人のことばかりが取り上げられがちですが、地味だが重要な仕事をした人々がいたことは、忘れない方が良いですよね。