「男装の麗人」の反対語は「女装の……」何でしょう?
【ただいま読書中】『ねじの回転』ヘンリー・ジェイムズ 著、 土屋政雄 訳、 光文社古典新訳文庫、2012年、914円(税別)
最初から複雑な状況に読者は置かれます。
この物語は、文字通り「語られたもの」なのです。古い屋敷、暖炉を囲んだ人々、その前で朗読される物語、それを聞く一員として読者はこの「物語」に参加することを求められます。
語るのは、20歳の乙女の「わたし」。貧しい田舎牧師の末娘で、職を求めてロンドンに出てきました。そこで出会った雇用主は、大金持ちの青年。彼は独身ですが、亡くなった弟夫妻の子供たち(兄妹)を引き取って途方に暮れていました。子育てなどできないからです。そこで、田舎(エセックス)の屋敷を子供たちに明け渡し、そこで家庭教師にすべてを委任する(そのかわり、雇用主には一切の連絡をしない)という条件で契約を結ぶことにします。まるで「親代わりになる」という奇妙な契約ですが「わたし」は受けます。
エセックスの屋敷で出会ったのは、信じられないくらい美しい兄妹マイルズとフローラでした。「わたし」は二人に夢中になります。しかし、「わたし」は屋敷で別の“もの”にも出会います。邪悪な幽霊です。それも一人ではありません。少なくとも男と女がいます。「わたし」はそれらから子供たちを守ろうと決心しますが、子供たちがすでにその幽霊に気づいている、そして自分たちが気づいていることを大人たちに知られないように隠そうとしていること、にも気づきます。
謎はいくつもあります。幽霊たちの関係、幽霊と子供たちの関係、そもそもなぜ幽霊が出るのか、幽霊を取り囲む異様な雰囲気、そして、子供たちが隠している謎。まるで、闇夜に大きな屋敷の中を明かりなしで手探りで歩いているような感じです。これは確かに「暖炉のほとりでの物語」にふさわしいものです。
緊張は静かに少しずつ高まっていきます。まるでねじが少しずつ回転してねじ込まれていくように。「わたし」は少しずつ追い詰められていきます。このサスペンスをたとえば映画で効果的に示す手を私は思いつきません。
さらにサスペンスの“焦点”が、いつのまにか「幽霊」から「マイルズ」に移行します。それにしたがって、私の「誰の心の闇がこの物語のベースになっているのか」という興味も、マイルズに移行し、さらに「わたし」の方に移行していきます。
化け物とか幽霊とか、ある意味“直接的なもの”による恐怖を強調するのではなくて、心理サスペンスで“怪談”を構成するとは、本書刊行当時にはとんでもなく斬新なアイデアだっただろうと私は感じます。今でも面白いのですから。本書はやはり、朗読で味わうべきかもしれません。部屋を暗くして、ろうそくを一本一本消していって……って、それだと百物語になっちゃいますね。