【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

野球らしさと高校野球らしさ

2016-01-14 07:06:03 | Weblog

 球児は3年間「高校野球」をやりますが、プロに入ったらあっさり「高校野球らしさ(ひたむきさ、全力疾走、爽やかさ、など)」を捨ててしまいます。つまり彼らが“演じ”ているのは「野球人らしさ」ではなくて「高校球児らしさ」。高校時代にしか通用しない「らしさ」です。だけど、「3年間限定の“らしさ”」って、本当に「野球の魅力」なんですか? 「らしさ」を演じる/演じさせる、ことは、そんなに重要?

【ただいま読書中】『学生野球憲章とはなにか ──自治から見る日本野球史』中村哲也 著、 青弓社、2010年、1600円(税別)

 戦前日本、東京では6大学野球、関西では中等野球(俗に言う「甲子園」)が熱狂的なファンの支持を受けていました。どちらもマスコミと鉄道会社などの企業とが組んで人気を煽っていました。それが行きすぎて、「選抜大会優勝チームには夏休みに渡米旅行のプレゼント」を行うことで、夏の甲子園大会に選抜優勝チームを参加させないようにする、という“妨害工作”まで登場しています。ともかく、野球ブームは最初から「商業」と密接に関係していたのです。それは露骨に「選手と金」の関係に表れました。1929年春の早慶戦は3試合で入場料収入が4万円、31年秋は3試合で8万3千円。体協の年間予算が1万5千円の時代です。プロ野球がなくても学生野球がしっかりそのかわりとして機能してたのです。特待生制度もすでに大正年間には始まっていました。選手争奪騒動はすさまじく、とうとう選手誘拐まで起きています。さらに「大学は出たけれど」の不況の世の中でも、スター選手は破格の待遇で企業に迎えられていました。
 球場の雰囲気は下品でした。「悪野次」が飛び交い、押しかけた群集がグラウンドになだれ込んで試合が中止になることも。応援団同士の乱闘や選手に対する暴行もあります。こういった「下品」「お金の問題」「フェアプレーの精神の欠如」「学業不良」「不正行為」などが問題となり「国家統制が必要」と述べる人が登場します。学校内部にも「浄化を」という声が上がります。
 1928年(昭和3年)「3・15事件」(治安維持法違反での共産党員一斉検挙)で488人が一斉検挙されましたが、その4割が高専・大学生でした。文部省は衝撃を受け、学生の思想統制に乗り出しますが、その手段の一つがスポーツでした。「公正なる闘志の発揚」「犠牲的精神」「尚武の精神の涵養」「愛国の思念の鼓吹」です。文部省がまず手をつけたのは野球でした。野球界では「自治」を旗印に自力で全国協会の設立を目指しますが、挫折。そのため政府主導で1932年に野球統制令が作られます。これで「ルール」はできたのですが、「商業主義を廃する」という割には大新聞社主催の大会は温存され、シーズン制も徹底されず、この問題は結局戦後まで持ち越されることになります。
 職業野球の確立にも野球統制令が働いています。野球統制令では学生とプロの対戦は禁止されていました。そのため、全米プロ選抜チームの訪日に対して、読売新聞社は「プロ野球選手」をかき集めて「日本選抜チーム」を作り、それを母体に大日本東京野球倶楽部(のちの東京讀賣ジャイアンツ)を結成しました。そして、大日本体育会の野球部会の形で、初めて野球の全国組織が誕生します。そして戦争による中断。
 1945年敗戦後、すぐに野球は復活します。「野球排撃」がいかに反日本的な動きだったか、これを見るだけでわかります。このへんは過去に読書した『野球と戦争 ──日本野球受難小史』(山室寛之)や『昭和20年11月23日のプレイボール』(鈴木明)に書いてありました。46年には中等野球が西宮球場で開催(甲子園は占領軍に接収されていました)。ここで問題になったのが野球統制令の存在です。文部省は野球の弊害防止を主張、対して選手側は国家統制の弊害を言います。CIE(GHQ民間情報教育局)は「自治」と「アマチュアリズム」を是としていました。だから商業主義を排しようとしましたが、文部省や野球界が「新聞社の後援がなかったら甲子園大会が開催できない」という主張も(「自治」を重んじるから)受けいれます。日本側は「大会さえ開催できたら、あとはなんとかなる」という態度だったのですが。学業重視のためのシーズン制についても「研究する」と言って誤魔化します。選抜大会の主催者の所も「主催」と書かずに中野連と毎日新聞社を連名として共催に見えるようにします。なんだか、ビジョンを欠いた場当たり的な対応にしか見えません。さらにCIEは、甲子園大会での巨大な売り上げの使い道が不明朗であることも問題にしています。高野連は結局CIEの指摘を一切黙殺し、そのかわりのように「教育としての野球」を強調する路線を歩むことになります。
 戦後のどさくさに作られた「基準要綱」は50年に「野球憲章」が定められます。ここでは「学生野球の本義」が定義づけられ、それに違反したものは「処分」されることになっていました。もっとも処分の前に“自発的”に退部や出場辞退をする場合もありますが。処分になった例として、審判への暴行・応援団同士の乱闘などがあります。さらに憲章で重視されたのが「プロとの関係」でした。ところがこの対策が「スカウトに大金を見せられてもぴくともしない精神力を養え」という精神論です。制度としての対応を考えないやり方は、不備そのものです。プロとアマ双方が納得できるルール作りをせずに、アマチュアの選手一人の個人責任にすべてを帰するのですから。しかも連帯責任まで押しつけます(1961年春の選抜大会直後に退部してプロと契約した門岡投手の行為に高野連は激怒し、高田高校に1年間の対外試合禁止の処分をしています)。この問題は、新人獲得の経費が天井知らずに上がることに悲鳴を上げたプロ側が65年からドラフト会議を開き、契約金や年俸の限度額を申し合わせることで“解決”しました。この申し合わせがきちんと守られたかどうかは、私は知りません。
 野球部員以外の不祥事でもその高校は対外試合禁止の処分を受けることが知られると、大会直前に有力校の不祥事の密告が増えるそうです。65年まで処分の対象は選手とチームだけでした。だから監督が選手に暴力を振るったことが問題になった場合でも、監督ではなくてそのチームが対外試合禁止処分を受けました。選手は殴られた上に殴られたから出場停止処分になるわけです。
 81年に、「上意下達」の佐伯体制からその逆の牧野体制に高野連が変わり、学生野球が変わり始めます。外国人学校の高野連加盟や女子マネージャーのベンチ入りが認められ、不祥事に対する処分が緩和されるようになりました。本書には不祥事の推移が載っていますが、特に「指導者の不祥事による対外試合禁止処分」が激減しているのが私には良いことのように思えます。罰するべき対象を間違えてはいけません。
 プロとの関係改善とか処分に異議がある場合には日本スポーツ仲裁機構(JSAA)の仲裁が受けられるようになった、とかの変革もあります。ただ、ここでもう一度確認するべきは「アマチュア野球とは何か」の基本でしょう。日本では「そもそも論」は嫌われているそうですが、それを嫌ってその場しのぎを繰り返すから、結局無理がたまってしまうのです。「野球とは何か」「アマチュアとは何か」「アマチュア野球とは何か」「学生野球とは何か」をもう一度じっくり確認してみることは、たぶん無駄ではないはずです。