【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

笑顔の隣

2016-01-18 06:53:55 | Weblog

 たまに実に良い笑顔をしている人に出会うことがあります。そんなときこちらも幸福のお裾分けをしてもらった気分になりますが、そういった笑顔の“隣”には何が寄り添っているのだろう、と思うことがあります。

【ただいま読書中】『音のない世界と音のある世界をつなぐ ──ユニバーサルデザインで世界をかえたい!』松森果林 著、 岩波ジュニア新書、2014年、860円(税別)

 2011年の大震災で、障害者の死亡率は健常者の倍以上でした。千葉に住む聴覚障害を持つ著者にとっても「危険」は「揺れ」だけで、「食器が砕けたりする音」「防災無線の音」は一切届いていませんでした。「危険は静か」だったのです。メールはつながらず、情報を得ようとつけたテレビでも、すぐに字幕がついたのはNHKだけでした(ただしNHKは22時に字幕放送は終了。日本テレビは17時から字幕を始め、25時間継続したそうです。入力作業をした人たちには、頭が下がります)。
 「ユニバーサルデザイン」ということばがありますが、大災害時に障害者を情報から遠ざけることで余計に殺すことがないようにするための「デザイン」も必要です。ではその「デザイン」はどのようなもの? ここで重要なのが、健常者と障害者の両方のことがわかる人でしょう。
 「音がないことによる不便」はたとえば「防災無線が聞き取れず避難が遅れる」といった命にかかわるもの以外にもいろいろあります。小さな、しかし意外なものが「換気扇が動作中かどうかわからない」。フードにすっぽり覆われている換気扇の場合、うっかりつけっぱなし、ということが多いのだそうです。電子レンジの終了音も聴覚障害者には無意味です。著者が体験した笑い話の部類ですが、電気掃除機のプラグがコンセントから抜けても聴覚障害者は気づかずに“掃除”を続けるそうです(最近の静音タイプは振動も“静か”で気づきにくいそうです)。私たちが日常生活でいかに音に頼っているか、こういう話を聞くとよくわかります。
 聴覚障害者と言っても簡単ではありません。「ろう者(先天的に失聴。手話がメイン)」「難聴者(状態によってコミュニケーションは音声、筆記、手話など様々)」「中途失聴者(聞こえないけれど話すことは可能)」など、各人の不便さ・コミュニケーション手段・アイデンティティにかかわる“分類”があります。
 著者は中途失聴者です。青春時代に著者が少しずつ音を失っていく過程には真実の響きがあります。その響きを聞き取るために超人的な聴力は不要です。ごく普通の理解力とほんのちょっとの想像力があれば良い。しかし、社会(特に日本社会)が障害者を受容するのは大変ですが、本人が自分の障害を受容するのも大変なんですねえ。日本で支配的な「普通でなければならない」は、障害者や少数派に関しては有害な因子のようです。ともあれ、著者は「ユニバーサルデザイン」の開発に取り組むことになります。
 著者が住むマンションで、「井戸端会議」が「井戸端手話の会」に変貌する話も印象的です。
 シースルーエレベーターも実は「ユニバーサルデザイン」だそうです。事故があって閉じ込められたとき、中に誰かいるかどうか外から確認が容易ですし、ガラスの壁を通して筆談でコミュニケーションが可能です。ただ透明な壁は弱視者には壁と認識できないため、別の工夫が必要になります。
 そうそう、テレビのCMのことも私にとっては意外な話題でした。日本のCMには字幕が付いていないことが当然だったのです。つまり企業にとって聴覚障害者は「お客さま」ではなかったわけ。著者は粘り強く「CMに字幕を」運動を粘り強く継続しています。そして2011年に花王が、14年には国が動き始めます。
 本書を読んでいて、私はつくづく思います。聴覚障害者は音が聞こえなくなっていますが、「健常者」は障害者の声が聞こえないのではないか、と。ユニバーサルデザインの「ユニ」は「1」という意味ですが、これは「一つの世界のルール(健常者のルール)を全員に押しつけること」ではなくて「各個人がすべて別の人間であることを認め、そういった人すべてが不等に扱われずに一つの世界の中で平等に生きることができること」を意味しているのではないか、とも私は思っています。