映画やテレビではゾンビものに一定の人気があります。ミュージックビデオでは「スリラー」(マイケル・ジャクソン)を超えるものはまず出せないでしょうけれど。見る側の人気だけではなくて、制作側の事情からは「大がかりな仕掛けが不要で、特殊メイクとボロ着があれば良い」というのも好まれる要因かもしれません。ゾンビ役の人もちょっとメイクを変えれば何回でも“再利用”可能ですから人件費の削減もできそうですし。そのためでしょうね、極端な体型のゾンビ、というのはあまり画面に登場しません。印象が強くて再利用が難しいからかな。だけど巨漢のゾンビとかひどい痩せのゾンビとかも、日常生活で出会う確率で存在しているはずなんですけどね。そうそう、子供のゾンビもあまり登場しませんね。たとえ「ゾンビ」であっても「容赦なく子供をやっつける」は映画の“常識”には反しているのかもしれません。
【ただいま読書中】『シリアルキラーズ』ピーター・ヴロンスキー 著、 松田和也 訳、 青土社、2015年、3600円(税別)
アメリカ人の「感覚」で「真珠湾」と「9・11」の「中間点」は1963年の「JFK暗殺」だそうです。そのとき世界は確実に不気味で不確実なものに変容したのです。大量殺人もこの時点から増加した、と、殺人事件に関する実際の統計はともかくアメリカ人の感覚では捉えられています。当時「シリアルキラー」という言葉は知られていませんでしたが、たしかにその活動は盛んになっていました。1800~1995年のアメリカで、連続殺人事件の半数近くは最後の20年間に集中しているのだそうです。「切り裂きジャック」以降「連続殺人者」は貴族とか外科医のような人体解体の特殊技能を持つ者とか異常者という「我々とは違う人間」として扱われていました。しかし1970年代以降の「ポストモダンのシリアルキラーズ」は「我々と同じ人間」の階層出身者が多くいることが特徴です。
典型的なシリアルキラーは、知性が平均以上の白人男性ですが、他の人種や女性、それから二人組(以上)のキラーズもいます。もっとも多い動機は、性的支配。多くの犠牲者は殺害前あるいは殺害後に強姦されています。一般的な殺人事件では、犯人と犠牲者の間には何らかの人間関係があることが多いのですが、シリアルキラーの場合にはその関係が無いかあっても極めて希薄なことが特徴です(だから犯人が捕まりにくいのです)。
人数によって「シリアルキラー」を定義づけようという試みもあります。FBIは「3人(以上)(それぞれの殺人の間に“クーリングオフ期間”が存在)」を主張していますが、著者は「2人」で十分だと考えています。シリアルキラーの「分類」も混乱しています。FBIは当初「秩序型」と「無秩序型」に分けていましたが、今はもう何でもありのような混沌状態です。
著者は、二人のシリアルキラーにそれと知らずに接近遭遇をしていました。一人はリチャード・コティンガムという男で、ニューヨークの安ホテルのロビーでのすれ違い。コティンガムが二人の解体作業を終えて放火をしてそのまま退散をしようとしていた瞬間でした。もう一人はモスクワで、アンドレイ・ロマノヴィチ・チカティーロ(53人も殺した男です)。「陰謀」をゴルバチョフに訴えたい、と著者に話しかけてきたのですが、あまりに様子が変なので著者はさっさと別の人にインタビューをしてしまいました。チカティーロの逮捕3週間前のことです。ともかく、あとになって「自分はシリアルキラーと出会っていたんだ!」と気づく経験を2回もした著者は、「気づかずにもっとたくさんのシリアルキラーに出会っているのではないか?」という疑問を持ちます。……私も持ちます。私もそれと知らずに出会っているのではないか、と。
「羊たちの沈黙」や「FBIのプロファイリング」によって「シリアルキラー」はアメリカ社会で大きく扱われるようになりましたが、誇大評価も横行している、と著者は捉えています。マスコミは売るため、FBIは予算獲得のためにキラーや犠牲者の数字をどんどん膨らませたのではないか、と。
ただ、シリアルキラーが1970年頃からどんどん増えていることは間違いないようです。ただ、そういった“ブーム”は歴史上初めてのことではありません。著者によるとこの歴史でシリアルキラーが疫病のようにたくさん活動する“ブーム”は何回かあったそうです。ただ、今のはちょっと殺人者の数が多すぎるようですが。
シリアルキラーにとって「人命」は軽いものです。しかし「社会」からも、「シリアルキラーに殺された人々」は「事件の小道具」扱いでしかありません(売春婦などは殺されて当然、という扱いをされることもあります)。つまり、社会も人命を軽んじているのです。
古代から連続殺人や大量殺人はありましたが、「快楽殺人」という言葉(と概念)が登場するのは1880年代です。そして、それを待っていたかのように「切り裂きジャック」が登場します。そして、ヨーロッパの真似をするかのようにアメリカにも、さらにはソ連や中国にもシリアルキラーが活躍する時代がやって来ました。
シリアルキラーは、次々と殺人(と強姦・解体・食人などのおぞましい所業)を犯します。まるでそれを見習ったかのように、著者はシリアルキラーの行動を次々と読者の前に提示します。どのような生育歴があり、殺人の前にどのような軽微な犯罪から始めたか、そして最初の殺人からあとはどのように獲物を狩っていったかを詳述するのです。その内容は人によって本当に様々です。小児虐待を受けた人が多いのですが、そうではない人もいます。殺してから強姦する人もいれば強姦してから殺す人もいます。
最後の章は「シリアルキラーから生き延びる」とありますが、実際には「どうやったらシリアルキラーのリスクを引き寄せるか」の説明になっているようです。しかし「シリアルキラーの典型像」というのが存在しない以上、「予防」は大変困難です。ただ、FBIの調査では、犠牲者が捕まったとき、抵抗をしなければ全員殺されましたが、抵抗をした人は28人中3人は命が助かりました。抵抗をしたら暴力が激化する可能性は大ですが、それでも生存率がゼロよりはまし、ということです。一番有効そうなのは、話しかけて「自分には個性がある」ことを示すことのようです。シリアルキラーから見た犠牲者は自分の欲望を満たすための「記号」でしかありませんから、それが「個性を持った人間」ということになると殺しにくくなるのだそうです。実際にそれで命が助かった事例が数人紹介されています。ただ、命は助かっていますが、全員強姦はされています。
結局、シリアルキラーから身を守るためには、被害妄想的な行動をするしかない、という淋しい結論になりそうなのですが、それでもひどい目に遭うよりはマシですよねえ。まったく、もしもシリアルキラーが社会の産物なのだとしたら、なんて世の中になってしまったのでしょうか。