【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

個人主義と全体主義

2018-01-17 06:55:33 | Weblog

 個人主義が徹底しているところでは「各個人の神」がそれぞれ存在しているかもしれません。あるいは、個人主義が徹底している社会では、その反動で宗教では「絶対的な神」が存在するようになるかもしれません。

【ただいま読書中】『日本の新宗教』島田裕巳 著、 KADOKAWA(角川選書)、2017年、1700円(税別)

 「新宗教」は本書では「明治以降に成立した、仏教系・神道系の新しい宗教」とまず定義されます。現在では「新興宗教」とも呼ばれますが、戦前は「類似宗教」と呼ばれたそうです。
 明治政府は「神仏分離」を行い「国家神道体制」を構築しました。その「体制」によって新宗教は制約を受けますが、かえって体制に迎合するタイプの新宗教は勢力を伸ばしやすくもなった、と著者は考えています。
 新宗教の開祖の多くは「神憑り」を経験しています。そのときの言動が文字で記録されることが「その人」が「開祖」になるためには重要ですが、江戸時代に日本で識字率が上がったことが新宗教の成立に重要だった、と著者は指摘します。いろんなことが関連しているんですね。
 幕末〜維新期に始まった新宗教から、黒住教・金光教・天理教が特に取り上げられてその始まりと発展史が述べられています。天理教は政府に未公認のまま布教活動をしたため奈良や大阪で警察に厳しく取り締まられていましたが、やがて東京府で公認されそれが奈良に移転する形で発展します。しかし「体制」ができあがるとその内部では異論を唱える人たちが次々出現、分派活動がおこなわれることになりました。大本教も神憑りで教団が始まりましたが、過激な終末論を唱えたために弾圧を受けました。また、予言が外れることに失望して教団から分派する人が続出しました。成長の家の創立者谷口雅春も一時大本にいたそうです。大宅壮一が精力的に取材したのは「大本」「生長の家」「ひとのみち教団(戦後はPL教団)」でした。大宅壮一はマルクス史観から宗教を批判的に捉えていますが、教祖に直接ロングインタビューをしたのは今としては貴重な記録と言えるそうです。
 仏教系の新宗教は、法華系(または日蓮系)が中心となります。天台宗は南都仏教に批判的な立場で、日蓮はさらに過激に他の仏教(浄土教、密教、禅、律宗などをまとめて)批判していましたが、その「批判的なスタンス」が新宗教に通じるものがあったようです。その法華信仰と先祖信仰を統合したのが霊友会です。霊友会は支部制度を取って、支部長が信者を勧誘していましたが、当然支部長には「カリスマ」があり、支部長が独立するとその支部の信者はまとめてそれについていく、という形で分派が繰り返されました。その中でもっとも有力な教団になったのが立正佼成会です。
 昭和に入ると、不敬罪と治安維持法を根拠に、新宗教は激しく弾圧されるようになりました。特に激しい弾圧を受けたのが大本教とひとのみち教団でした。生長の家は「天皇信仰」を強く主張するようになっていてそのため弾圧を逃れました。ただ、出版を活動の中心に置いていたため、紙不足のため痛手を受けます。
 日蓮信仰に強く影響された個人や集団として、「北一輝(2・26事件の首謀者として死刑)」「血盟団(要人へのテロを繰り返した)「死なう団(「第二の血盟団」として警察に弾圧されたが、口で「死なう」「死なう」と言うだけで実際にはテロはしていなかった)」が本書で紹介されます。
 弾圧されたが規模が小さかったものとして「灯台社(今のものみの塔:エホバの証人)」と「創価教育学会(今の創価学会)」も挙げられます。キリスト教も仏教も、弾圧は見逃さなかったんですね。
 戦後「宗教の自由」がやってきます。ところが、宗教団体は「届出」でよいとされたため、レストランが「客は信者、空腹を満たすことが救済、代金は信者が差し出す献納品」と主張して「教会」として認められたり、の変な事態となり、1951年に「宗教法人法」が施行されました。これによって「認証」を所轄官庁から受ける必要が生じたのですが、一般にも宗教団体にも「認可」と「認証」の区別に対する誤解がはびこっているそうです(実は私は本書を読んでもその区別がよくわかっていません)。また税金も「宗教団体は無税」というのは誤解で、「収益事業(敷地内の駐車場、幼稚園、宗教以外の物品販売など)」の利益には法人税が(軽減税率ではありますが)かかっているそうです。あら、ここも私は勘違いをしていました。
 政治の世界にも新宗教は進出しました。創価学会は有名ですが、他にも様々な宗教団体の信者が立候補・当選をしています。
 高度成長後の石油ショックや「ノストラダムスの大予言」といった風潮で、「終末論」や「超能力」と関連する新新宗教が生まれるようになります。さらには「霊感商法」「マインド・コントロール」といったことばで、新新宗教に対する警戒感が社会に生まれます。
 「政府に管理される宗教」の社会は国民にとってあまり愉快な状況ではない、と言えますが、「宗教が好き放題する社会」もまた国民にはあまり愉快なことが起きないようです。一体どこでバランスを取ったら良いものやら。