【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

貯月

2018-01-31 18:43:26 | Weblog

 本当は今夜は皆既月食なんだそうですが、残念ながら雲が月を食してします。昨日一昨日ととても綺麗な月だったのに、なんで今日に限って、と残念です。どこかに「綺麗な月」を貯蓄というか貯月しておいて、月食の日に引き出して使えたらいいのになあ。

【ただいま読書中】『オホーツクの古代史』菊池敏彦 著、 平凡社、2009年、760円(税別)

 貞観四年(640)1万5000里北の流鬼国から朝貢の使節が長安にやって来ました。この流鬼国がどこにあるかは「カムチャッカ半島説(イテリメン民族)」と「サハリン(樺太)(アイヌ民族)」の二つの仮説があります。(なお、宋の時代の『唐会要』では、長安から1万5000里離れた国は流鬼国と波斯(ペルシア)だけです)
 1890年(明治二十三年)札幌の代田亀次郎は礼文島で発掘された土器(縄文がないもの)を報告、1913年(大正二年)に網走の米村喜男衛は網走でモヨロ貝塚を発見、そこから縄文のついていない黒褐色の土器を発掘しました。似たタイプの土器が北海道のオホーツク沿岸の遺跡から、さらには千島列島やサハリン南部から相次いで発見され、昭和初期に「オホーツク式土器」「オホーツク文化」という呼称が定着します。モヨロ貝塚の発掘調査から、「オホーツク文化」が大陸と関連を持っていることが示唆されましたが、肝腎の大陸の考古学調査が進んでいなかったため(ソ連の調査が進むのは1950年よりもあとになってからです)、日本の「オホーツク文化」は独自の学説として進むことになりました。
 オホーツク文化の人たちは、ブタとイヌを飼い、同時に漁撈も盛んに行っていました(魚だけではなくて、海獣(アザラシ、オットセイ、クジラ、イルカなど)も盛んに食べています)。また、馬の痕跡はありません。オホーツク海をぐるりと取り巻くように分布した遺跡には、それ以外にも様々な共通点があります。オホーツク海を「内海」として盛んに交流する文化圏がそこにあった、とするのは無理のない仮説のようです。となると次は「証明」ですね。ただ、「彼ら」が定住していなければ、その遺跡の評価はとても難しくなります。実際にはどんな人たちがいて、どんな生活をしていたのか、私もいろいろ想像の翼を広げてみました。というか、オホーツク海沿岸にそのような文化圏が昔あった、というだけで、十分スリリングです。