【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

頼んでいないもの

2018-01-21 07:52:20 | Weblog

 外国人観光客に理解困難な日本の風習の一つが「お通し」だそうです。たしかにあれは、日本人でも「頼んでいないぞ」と言いたくなることもありますもんねえ。逆に「お通しだけ追加注文したい」ということもありますが。
 ところで西洋料理でも「頼んでないぞ」というものがありません? たとえば「付け合わせの野菜」。「ビーフステーキ」を頼んだのに「ビーフステーキ、ジャガイモと人参添え」が出てきたら注文間違いになりません?

【ただいま読書中】『ザビエルと日本 ──キリシタン開教期の研究』岸野久 著、 吉川弘文館、1998年、7600円(税別)

 アンジロー(ヤジロー)が殺人を犯して逃亡潜伏中に、ポルトガル商人を頼ってマラッカに脱出して受洗した、という本人の書翰がまず登場します。なんだかずいぶんさらりと書いてありますが、当時の日本では相当な“冒険"ですよね。それに「困ったときに頼れるポルトガル人の親友」を持っていたとは、アンジローとは一体何者?
 宣教師がやって来る前にすでに日本人はキリスト教に“出会って"いました。九州にやって来たポルトガル商人は、日常行為として礼拝をしていましたが、日本では宗教者しかしないそういった行為を一般人が行っていることに日本人(たとえば大友宗麟)は強く興味を引かれたのです。また、幽霊屋敷に宿泊したポルトガル人が、怪奇現象が起きたために魔除けに十字架を立てたのを見た日本人は「十字架の霊験」にまず興味を持ちました。現世利益追求ですね。
 アンジローはポルトガル商人たちの導きで、ザビエルに会う前にすでに洗礼を受ける気満々になっていました。ポルトガル商人ヴァスはアンジローにマラッカ行きを勧めゴアで教理学習ができることを教え、マラッカへの航海中アルヴァレスはアンジローを教化すると同時にザビエルに日本の情報(土地の情報、日本人の旺盛な知識欲、インドよりも布教の成果が見込めること、など)を提供していました。つまりザビエルの活動の下準備を商人たちが“分担"“協力"しておこなっていたのです。
 インドではタミル語を学習したエンリケスが着々と布教していました。ザビエルは1542年からインドで布教を始めますが、チナ(中国)への布教にも興味を抱いていました。また、彼の書翰には「日本人とチナ人は、話せないが共通の文字で筆談ができる」ともあります。そして、日本への出発直前にイエズス会への書翰では、日本の情報だけではなくてチナの情報も送っています。すでにチナへの布教構想を持っていたのかもしれません。
 ザビエルは1549年8月〜51年11月まで日本(鹿児島〜平戸〜京都〜山口〜豊後)に滞在しました。ここで日本社会が持つチナ指向性・チナ崇拝をザビエルは実感します。そして、日本に再訪する予定でインドに一時戻ったとき、チナ国に囚われたポルトガル人のことを知り、ポルトガル人を救うためのミッションにチナ国布教を絡めた計画を立てたザビエルは、すでに開教できた日本にはもう戻りませんでした。
 書翰から見る限り、ザビエルにとってのインド人は野蛮人で、日本人は文明人。そしてその日本人が規範とするチナ人はもっと素晴らしい人たちに違いない、という思いだったのでしょう。
 ただ、ザビエルが行った改宗方法は、彼の書翰から見る限り、通訳を介した機械的・集団的なもので、これでは「きちんとした信仰に基づくキリスト者」は生まれないぞ、と私には思えるものです。対して、改宗の効果を示していたエンリケスは、まずタミル語を学び時間をかけてじっくりと話を聞き説得をする、という方法で、それを横目で見ていたザビエルがその方法論を日本で実践した、ということでしょう。
 ザビエルはアンジローをゴアにある聖パウロ学院に派遣します。目的は「ゴアのポルトガル人社会を体験(日本に帰国して西欧の素晴らしさを語ることができる)」「ポルトガル語の学習(通訳になれるように)」「キリスト教教理の学習(アンジロー個人の信仰のためになるし将来の布教活動にも役立つ)」「教理関係書の翻訳(日本ですぐ使えるように)」「日本情報のさらなる提供」と盛りだくさんです。アンジローはゴアに1年あまり滞在し、ザビエルの課した目的を見事に果たしました。
 そして鹿児島上陸。ザビエルだけではなくて日本人たちも布教に“活躍"することになります。
 日本史の教科書では「1549年キリスト教伝来」と数文字で記されていますが、その“物語"は実に分厚いものであることがわかります。研究者はいくら研究しても「時間が足りない」と悲鳴を上げるのでしょうね。