食べ物とか人物とかに関して、「○○が好き」とまず言う人と、逆に「××は嫌い」とまず言う人とでは、回りの印象が違ってきません? もしかしたらその人の人生に対する態度の違いを感じ取ってしまうのかもしれません。単に言う順番の違いによる印象づけの違いかもしれませんけれどね。
【ただいま読書中】『完全な人間を目指さなくてもよい理由 ──遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』マイケル・J・サンデル 著、 林芳紀・伊吹友秀 訳、 ナカニシヤ出版、2010年、1800円(税別)
遺伝子工学の発展は、私たちに、希望(遺伝的な病気の撲滅)と窮状(人間の本性を人間が設計し治すことに対する不安)をもたらしました。
さて、ここからサンデルさん(とその愛読者)にはおなじみの論理展開が始まります。「デザイナー・チルドレン」は子供の「自由」を侵害している、と言うのなら、では「まったく成り行き任せ」で生まれた子は遺伝的に「自由」なのか?とか、「子供の遺伝子をいじるのはダメ」なのだったら「本人の遺伝子をいじる」のはどうなのか?とか。ここで多くの人が感じる「道徳的困惑」は、実は根が深い(そして「簡単な解決」など存在しないだろう)ことが読者にさらりと示されます。読者は「自分が感じる道徳的困惑」は「正当な反応」なのか、もし正当だとしたらその「根拠」は何か、を考えるように求められるのです。「自分が正しいと感じるから、正しいのだ」ではなくてね。
著者は過激です。こういった場合人々が使用しようとするのは「(旧来の)道徳のことば」です。しかしそういったことばでは、現代の科学によってもたらされた困難な問題を扱うには力が足りない、と断言するのですから。たとえば「公平性」ということばはよく使われますが、スポーツの場面ですべての選手の能力は「公平」でしょうか? そもそもの能力に先天的な差があることが当然の前提になってません? だったらスポーツにおいて倫理的なことを述べるのに「公平」ということばは使うな、と著者は主張します。
具体例が4つ上げられます。「筋肉増強」「記憶力強化」「身長アップ」「子供の性選択」。すべてすでに「現実に存在する問題」です。
筋肉断裂となったスポーツ選手に遺伝子治療で筋肉を回復させることはOKか? もしOKなら、“ついで”に他の筋肉も同じ手段で増強することはOKか? 成長ホルモン欠乏症の子供に人成長ホルモンを投与するのは「治療」であるが、健常だが低身長の子供に同じホルモンを投与するのはOKか?(アメリカでは実際に広く行なわれているそうです)
それらの技術がもたらす社会的影響について著者は敢えて拘泥しません。もっと根源的な「それらの技術が人間性をすり減らすとしたら、それはどのようにして行なわれるか」を明確に述べる必要がある、として、第二章に進みます。
サイボーグ選手(遺伝子改造された選手)の主要な問題は、「人間らしい行為主体性を蝕んでしまう」ことではなくて「人間らしい能力や達成にそなわっている被贈与的性格に対する無理解」だ、と著者は述べます。それは、人間と人間のつながりの、深い部分(共感とか共鳴)を破壊する、と。
「子供はギフトである」という考え方があります(日本語だったら「子供は授かり物」でしょう)。この場合、親は子供をあるがまま受け入れることになります。神学者ウィリアム・F・メイが「招かれざるものへの寛大さ」と言ったように。(ただし、著者は「子供が偶然持ち合わせた才能や属性で、親の愛情が左右されることはない」と言いますが、実際にはけっこう左右されてません?) 親の愛には「受容の愛(子供の存在を受け入れる)」と「変容の愛(子供の福利を探究する)」があり、その両者はお互いの行きすぎを是正しつつ釣り合いを保っています。では、子供に教育や訓練を与えることで支援することと、遺伝子操作で支援することに、「差」があるのでしょうか。
著者は、安易なエンハンスメント批判ではなくて、人類全体に“利益”のある形でのバイオテクノロジーの発展を願っています。そして、そのためには、旧来の文化に根ざした“批判”“非難”ではなくて、21世紀にふさわしい新しい倫理や道徳の誕生を願っているようです。というか、著者はその新しい道徳を作ろうと(それも、自分で作るのではなくて、コミュニタリアンらしく、公開の場でコミュニケーションを通じて、その枠組みを作っていこうと)しているのかもしれません。本書はおそらく著者の“通過点”でしょう。この先彼がどこに向かっていくのか、目が離せない思いです。
なお、『これからの「正義」の話をしよう』とは違って、本書にはアリストテレスは登場しません。カントは名前だけ登場、という軽い扱いです。哲学が苦手な人間でも、安心して読むことができます。ただし、ロールズはちょこっと登場します。著者はロールズが本当に好きなんでしょうね。
【ただいま読書中】『完全な人間を目指さなくてもよい理由 ──遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』マイケル・J・サンデル 著、 林芳紀・伊吹友秀 訳、 ナカニシヤ出版、2010年、1800円(税別)
遺伝子工学の発展は、私たちに、希望(遺伝的な病気の撲滅)と窮状(人間の本性を人間が設計し治すことに対する不安)をもたらしました。
さて、ここからサンデルさん(とその愛読者)にはおなじみの論理展開が始まります。「デザイナー・チルドレン」は子供の「自由」を侵害している、と言うのなら、では「まったく成り行き任せ」で生まれた子は遺伝的に「自由」なのか?とか、「子供の遺伝子をいじるのはダメ」なのだったら「本人の遺伝子をいじる」のはどうなのか?とか。ここで多くの人が感じる「道徳的困惑」は、実は根が深い(そして「簡単な解決」など存在しないだろう)ことが読者にさらりと示されます。読者は「自分が感じる道徳的困惑」は「正当な反応」なのか、もし正当だとしたらその「根拠」は何か、を考えるように求められるのです。「自分が正しいと感じるから、正しいのだ」ではなくてね。
著者は過激です。こういった場合人々が使用しようとするのは「(旧来の)道徳のことば」です。しかしそういったことばでは、現代の科学によってもたらされた困難な問題を扱うには力が足りない、と断言するのですから。たとえば「公平性」ということばはよく使われますが、スポーツの場面ですべての選手の能力は「公平」でしょうか? そもそもの能力に先天的な差があることが当然の前提になってません? だったらスポーツにおいて倫理的なことを述べるのに「公平」ということばは使うな、と著者は主張します。
具体例が4つ上げられます。「筋肉増強」「記憶力強化」「身長アップ」「子供の性選択」。すべてすでに「現実に存在する問題」です。
筋肉断裂となったスポーツ選手に遺伝子治療で筋肉を回復させることはOKか? もしOKなら、“ついで”に他の筋肉も同じ手段で増強することはOKか? 成長ホルモン欠乏症の子供に人成長ホルモンを投与するのは「治療」であるが、健常だが低身長の子供に同じホルモンを投与するのはOKか?(アメリカでは実際に広く行なわれているそうです)
それらの技術がもたらす社会的影響について著者は敢えて拘泥しません。もっと根源的な「それらの技術が人間性をすり減らすとしたら、それはどのようにして行なわれるか」を明確に述べる必要がある、として、第二章に進みます。
サイボーグ選手(遺伝子改造された選手)の主要な問題は、「人間らしい行為主体性を蝕んでしまう」ことではなくて「人間らしい能力や達成にそなわっている被贈与的性格に対する無理解」だ、と著者は述べます。それは、人間と人間のつながりの、深い部分(共感とか共鳴)を破壊する、と。
「子供はギフトである」という考え方があります(日本語だったら「子供は授かり物」でしょう)。この場合、親は子供をあるがまま受け入れることになります。神学者ウィリアム・F・メイが「招かれざるものへの寛大さ」と言ったように。(ただし、著者は「子供が偶然持ち合わせた才能や属性で、親の愛情が左右されることはない」と言いますが、実際にはけっこう左右されてません?) 親の愛には「受容の愛(子供の存在を受け入れる)」と「変容の愛(子供の福利を探究する)」があり、その両者はお互いの行きすぎを是正しつつ釣り合いを保っています。では、子供に教育や訓練を与えることで支援することと、遺伝子操作で支援することに、「差」があるのでしょうか。
著者は、安易なエンハンスメント批判ではなくて、人類全体に“利益”のある形でのバイオテクノロジーの発展を願っています。そして、そのためには、旧来の文化に根ざした“批判”“非難”ではなくて、21世紀にふさわしい新しい倫理や道徳の誕生を願っているようです。というか、著者はその新しい道徳を作ろうと(それも、自分で作るのではなくて、コミュニタリアンらしく、公開の場でコミュニケーションを通じて、その枠組みを作っていこうと)しているのかもしれません。本書はおそらく著者の“通過点”でしょう。この先彼がどこに向かっていくのか、目が離せない思いです。
なお、『これからの「正義」の話をしよう』とは違って、本書にはアリストテレスは登場しません。カントは名前だけ登場、という軽い扱いです。哲学が苦手な人間でも、安心して読むことができます。ただし、ロールズはちょこっと登場します。著者はロールズが本当に好きなんでしょうね。