【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

好き嫌い

2011-01-21 17:58:58 | Weblog
食べ物とか人物とかに関して、「○○が好き」とまず言う人と、逆に「××は嫌い」とまず言う人とでは、回りの印象が違ってきません? もしかしたらその人の人生に対する態度の違いを感じ取ってしまうのかもしれません。単に言う順番の違いによる印象づけの違いかもしれませんけれどね。

【ただいま読書中】『完全な人間を目指さなくてもよい理由 ──遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』マイケル・J・サンデル 著、 林芳紀・伊吹友秀 訳、 ナカニシヤ出版、2010年、1800円(税別)

遺伝子工学の発展は、私たちに、希望(遺伝的な病気の撲滅)と窮状(人間の本性を人間が設計し治すことに対する不安)をもたらしました。
さて、ここからサンデルさん(とその愛読者)にはおなじみの論理展開が始まります。「デザイナー・チルドレン」は子供の「自由」を侵害している、と言うのなら、では「まったく成り行き任せ」で生まれた子は遺伝的に「自由」なのか?とか、「子供の遺伝子をいじるのはダメ」なのだったら「本人の遺伝子をいじる」のはどうなのか?とか。ここで多くの人が感じる「道徳的困惑」は、実は根が深い(そして「簡単な解決」など存在しないだろう)ことが読者にさらりと示されます。読者は「自分が感じる道徳的困惑」は「正当な反応」なのか、もし正当だとしたらその「根拠」は何か、を考えるように求められるのです。「自分が正しいと感じるから、正しいのだ」ではなくてね。
著者は過激です。こういった場合人々が使用しようとするのは「(旧来の)道徳のことば」です。しかしそういったことばでは、現代の科学によってもたらされた困難な問題を扱うには力が足りない、と断言するのですから。たとえば「公平性」ということばはよく使われますが、スポーツの場面ですべての選手の能力は「公平」でしょうか?  そもそもの能力に先天的な差があることが当然の前提になってません?  だったらスポーツにおいて倫理的なことを述べるのに「公平」ということばは使うな、と著者は主張します。
具体例が4つ上げられます。「筋肉増強」「記憶力強化」「身長アップ」「子供の性選択」。すべてすでに「現実に存在する問題」です。
筋肉断裂となったスポーツ選手に遺伝子治療で筋肉を回復させることはOKか?  もしOKなら、“ついで”に他の筋肉も同じ手段で増強することはOKか?  成長ホルモン欠乏症の子供に人成長ホルモンを投与するのは「治療」であるが、健常だが低身長の子供に同じホルモンを投与するのはOKか?(アメリカでは実際に広く行なわれているそうです)
それらの技術がもたらす社会的影響について著者は敢えて拘泥しません。もっと根源的な「それらの技術が人間性をすり減らすとしたら、それはどのようにして行なわれるか」を明確に述べる必要がある、として、第二章に進みます。
サイボーグ選手(遺伝子改造された選手)の主要な問題は、「人間らしい行為主体性を蝕んでしまう」ことではなくて「人間らしい能力や達成にそなわっている被贈与的性格に対する無理解」だ、と著者は述べます。それは、人間と人間のつながりの、深い部分(共感とか共鳴)を破壊する、と。
「子供はギフトである」という考え方があります(日本語だったら「子供は授かり物」でしょう)。この場合、親は子供をあるがまま受け入れることになります。神学者ウィリアム・F・メイが「招かれざるものへの寛大さ」と言ったように。(ただし、著者は「子供が偶然持ち合わせた才能や属性で、親の愛情が左右されることはない」と言いますが、実際にはけっこう左右されてません?) 親の愛には「受容の愛(子供の存在を受け入れる)」と「変容の愛(子供の福利を探究する)」があり、その両者はお互いの行きすぎを是正しつつ釣り合いを保っています。では、子供に教育や訓練を与えることで支援することと、遺伝子操作で支援することに、「差」があるのでしょうか。
著者は、安易なエンハンスメント批判ではなくて、人類全体に“利益”のある形でのバイオテクノロジーの発展を願っています。そして、そのためには、旧来の文化に根ざした“批判”“非難”ではなくて、21世紀にふさわしい新しい倫理や道徳の誕生を願っているようです。というか、著者はその新しい道徳を作ろうと(それも、自分で作るのではなくて、コミュニタリアンらしく、公開の場でコミュニケーションを通じて、その枠組みを作っていこうと)しているのかもしれません。本書はおそらく著者の“通過点”でしょう。この先彼がどこに向かっていくのか、目が離せない思いです。

なお、『これからの「正義」の話をしよう』とは違って、本書にはアリストテレスは登場しません。カントは名前だけ登場、という軽い扱いです。哲学が苦手な人間でも、安心して読むことができます。ただし、ロールズはちょこっと登場します。著者はロールズが本当に好きなんでしょうね。



二重にみっともない

2011-01-20 18:32:06 | Weblog
あまりにつまらないものを絶賛している姿はみっともないものです。
「自画自賛」というのも、私はみっともなく感じます。
……すると、「つまらない自分(の作品)」を自画自賛している姿は、「みっともない」の二乗で「プラス」になる……わけはありませんね。

【ただいま読書中】『イギリス幻想小説傑作集』由良君美 編、白水社(白水uブックス)、1985年、880円

目次
「サノックス卿夫人秘話」(アーサー・コナン・ドイル)、「屋敷と呪いの脳髄」(エドワード・ブルワー=リットン)、「幽霊船」(リチャード・バラム・ミドルトン)、「スレドニー・ヴァシュタール」(サキ)、「異形のジャネット」(ロバート・ルウイス・スティーヴンソン)、「緑茶」(ジョセフ・シェリダン・レ・ファニュ)、「林檎の谷」(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ)、「われはかく身中の虫を退治せん」(ジョン・コリア)、「樹」(ウォルター・デ・ラ・メア)、「ネズ公」(モンタギュー・ローズ・ジェイムズ)、「ポロックとポロの首」(H・G・ウェルズ)、「獣の印」(ラドヤード・キプリング)

先日読んだサキの名前が目次にあったので図書館から借りてきましたが、改めてゆっくり目次を見たら、あらあら、すごいラインナップです。
「サノックス卿夫人秘話」のサスペンスの後に、ホラーの「屋敷と呪いの脳髄」(久しぶりに正統的なホラーを読んだ気分になりました)。その後が滑稽譚の「幽霊船」(なにしろ、稀代の嵐のあと、フェアフィールドの畑のど真ん中に幽霊船が吹き寄せられ、そこで住民が問題にするのは、その船が畑のカブを50も潰していること、なのです)。
ジョン・コリアの「われはかく身中の虫を退治せん」は衝撃でした。はじめは穏やかに、よく子供が持っている想像上の友達の話のように始まります(サキの作品と非常に似たテイストです)。ところが突然…… いや、恐い話です。心理学をある程度知っている人には、その怖さが倍増するかもしれません。
本書の“背景”は「大英帝国」でしょう。「英国」の外側で、でも英国の一部には、未知と不安と恐怖が充満していた、と言えば言い過ぎでしょうが、それに近い感覚を持っている人は多かったはず。開けるべきではなかった扉を開いてしまったのではないか、と。それまで「異教徒」として片付ければ良かった存在を「人間」として扱わなければならなくなったのですから。それと、もしかしたら大英帝国の行く末に対する不安も投影されているのかもしれませんが、これは「未来世界の読者」からの視点からの感想かもしれませんね。
「傑作集」と書いてあるのだから、傑作揃いなのは当然ですが、それでもこれだけの話が並ぶと、その効果は累乗になって読者に襲いかかってくれます。幻想小説や怪談が好きな人には、自信を持ってお勧めします。



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コンビニ強盗

2011-01-19 18:58:52 | Weblog
強盗の被害を撲滅するには、コンビニをなくすか、あるいはコンビニの店員をなくす方法があるでしょう。後者はつまりは店全体をでっかい自動販売機にしちゃうわけ。オール機械化の金がなかったら、レジだけセルフ式にする手もあるでしょう。この場合窃盗被害はあるでしょうが、それは、現在の万引きによる被害と同じように処理、かな。

【ただいま読書中】『数学の悦楽と罠 ──アルキメデスから計算機数学まで』ポール・ホフマン 著、 吉永良正・中村和幸・河野至恩 訳、 1994年、2718円(税別)

すべての約数(その数字自身は除く)を足すとその数字と同じになる者を「完全数」と言います。たとえば6は、約数が「1,2,3」ですから完全数。28は「1,2,4,7,14」で全部足せば28になるからやはり完全数。ユークリッドはさらに2つの完全数(496と8128)を知っていました。ところが現代では完全数は30知られていて、その最大のものは13万100桁の数です。で、面白いことに30個すべてが偶数です。ここで問題が2つ出てきます。「31番目の完全数は?」。もう一つは、「奇数の完全数は存在しないのか?」。
素数の話もわくわくします。いろんな本で何回読んでもわくわくする話題ではあるのですが。本書ではユークリッドの「素数は無限に存在する」という証明が簡明に紹介されています。背理法ですが、読むだけで快感です。証明が完成したときのユークリッドは、「すげえ快感」とつぶやいたかな?
幾何ももちろんあります。メビウスの輪の話から、その形の分子構造が実在すること、そしてそこから分子の鏡像関係(カイラル)に話は進みます。さらに、メビウスの輪が、数学と自然科学だけではなくて、数学と工学の間に新しい良い関係を作ったことまで読者は知ることができます。
「4色問題」の証明がコンピューターを使った“力ずく”のものだったのは印象的でしたが、著者はコンピューターに対して否定的ではありません。「3つの穴ととってを持つ中空の球面」とトポロジカルな曲面を見つける過程でコンピューターが果たした役割に関して、非常に面白いことを述べてくれます。しかもこの曲面、発生中の胚に似ていたり人工の歯を骨に移植するときに役立ちそう、とくるのですから、とても興味深い。もっともこの曲面自体、私はいくら図をながめても、どこがどう“トポロジカル”なのか、ちんぷんかんぷんではあったのですが。私は立体の把握は苦手なのです。
チューリングマシンについての数学的説明やゲーム理論も登場します。嬉しいことに難解な数式は登場しません。これらの記述から「純粋数学が現実世界としっかり関係を持っていること」が示されますが、私にはさらに本書からは「“数学のセンス”というものを、少しでも一般の読者に伝えたい」という熱意も感じました。単なる計算力でもなく、難解な数式を立てるだけでもなく、そういった「センス」を持って現実世界に対峙することは、「生きる力」になるのだ、と。
かつて、BSEがまだ狂牛病と呼ばれていた時代に、プリオン仮説を提唱するのに数学者が関与していたことを私は思い出します。この世は数学だけでできているわけではありませんが、数学的センスがあればもっと世界を深く理解することができるということの一例として。



野球界

2011-01-18 18:43:01 | Weblog
野球の世界は、プレイヤーと客とスポンサーとその他の人間から構成されています。で、たとえば日本のプロ野球で、一番大切にされているのは誰でしょう。少なくとも観客ではなさそうですし、選手会は自分たちの扱いに対して不満をよく言っています。ということは、一番大切にされているのは、もしかして、スポンサーと協会などの「その他の人間」?

【ただいま読書中】『エンダーのゲーム』オースン・スコット・カード 著、 野口幸夫 訳、 早川書房、1987年(2008年15刷)、1000円(税別)

短編(77年)ではなくて、長編の方の作品です。
地球は「バガー」と呼ばれる異星人との戦争にあえいでいます。危うく大敗北するところだったのを、一人の英雄のおかげでかろうじて生きのびることができましたが、その英雄もすでにいません。そこで「国際艦隊」はバトル・スクールを作ります。見込みのある子供を集めて指揮官に要請しよう、と。そこに徴募された子供たちの中に、6歳の少年エンダーがいました。
見かけが弱っちく、しかし生意気で、しかも頭がよくて教官受けがいい。こんな少年がどんな目に遭うかと言えば、孤立といじめです。しかしエンダーはバトル・ゲームで少しずつ頭角を現し、3年で自分の「地位」を確立します。「達人兵士」として。イジメはなくなりました。エンダーは尊敬される存在なのです。しかし、孤立は変わりませんでした。以前は嫌われることによる孤立、そして今は敬意に包囲されての孤立。軍の上層部はそれを「権力の孤独」と呼びます。
エンダーに与えられる課題は厳しさを増します。戦力は不平等となりルールはねじ曲げられます。エンダーはそれを次々突破しますが、周囲の者はエンダーが用いた戦略を模倣します。限界を感じたエンダーはついに、人類ではなくてバガーの戦略を研究するようになります。そして、ついにストレスが限界になった瞬間、エンダーは2年も早くバトルスクール卒業を申し渡され、3年のプレ・コマンドをすっ飛ばして直接コマンドスクールに転属となります。
「自分を傷つけようとする相手を止めるためには、それも二度と自分を傷つける気を起こさないように止めるためには、どんな手があるか」というテーマが何度も登場します。エンダーは6歳のときからその問題を自力で解かねばなりませんでした。そしてそれは「対バガー戦役」にまっすぐつながっていきます。さらにそこに深みを与えるのが、短編には存在しなかった、エンダーの兄と姉です。この二人の性格がまた複雑で(それなりに)まっすぐ。しかも天才。「子供だよね」と何度も確認したくなります。そしてこの3人の人間関係(あるいは関係の不在)が、エンダー自身の行動の“補助エンジン”となって、ぐいぐいと物語をドライブしていきます。
コマンドスクールでもエンダーが行なうのは「ゲーム」です。はじめは戦闘機の操縦。ついで、編隊の指揮。ゲームは少しずつ難しくなり、とうとう艦隊指揮のシミュレーションゲームが始まります。その時エンダーの手足となって動く編隊リーダーたちは、皆バトルスクールからの顔なじみでしたが、バトルスクールでと同様に「ゲーム」はどんどん厳しく不公正になっていき、エンダーたちは消耗します。そして、最終考査でシミュレーター上に登場した「バガーの艦隊」は、戦力差が1:1000。今までと同様、フェアプレイ精神などかけらもない設定です。そこでエンダーは……
最終章のタイトルは「死者の代弁者」です。ああ、続編があるんだな、と最初に読んだときには思いましたが、まさか“あんな形”になるとは思いませんでしたっけ。



農家

2011-01-17 18:40:21 | Weblog
カブトムシが動かなくなったのは電池が切れたからだとか、トウモロコシもジャガイモも木になる、と思っている小学生がいることがニュースになったのはいつのことでしたっけ。そう言えば、アメリカのテレビのワイドショーでは「農家がどうして必要なんです? 肉なら店に売っています」と言った奥様がいるそうです。

【ただいま読書中】『私の牛がハンバーガーになるまで ──牛肉と食文化をめぐる、ある真実の物語』ピーター・ローベンハイム 著、 石井子 訳、 日本教文社、2004年、1857円(税別)

1997年、著者は娘とマクドナルドに並び、ハッピーミール(日本でのハッピーセット)のおもちゃに牛のぬいぐるみがあることに驚きます。グリルした牛をほおばりながら牛のおもちゃで遊べ、と? ジャーナリストとしての著者は、「特定の牛」に焦点を絞って追跡をしてみようと思いつきます。農業に従事するのは国民の2%で畜産業についてほとんどの人が無知であるアメリカで、この追跡で自分に何が起きるのかを調べてみようと。さっそく意外な事実がわかります。著者が住むニューヨークは、米国で第3位の酪農州だったのです。自宅のすぐそばに“ターゲット”は存在していました。
著者はまずコーネル大学の公開講座で8週間の「酪農家養成講座」を受講し、種牛から精液が採取されるところを見学。ついでその精子でできた子牛を買い、その出産からずっと牧場で見学をすることにします。肉用牛ではなくて酪農牛ですが、問題はありません。ハンバーガーのパテはその両方の肉が混ぜ合わされて作られているのですから。
種牛の精液採取は、なんとももの悲しい光景です。種牛は週に2回“お仕事”をします。ホルスタイン種の雄は、種牛になれなかったら若牛の段階(ふつうは生後16ヶ月)で肉にされてしまいます。あるいは台牛(種牛が乗っかるために尻を貸す係)になるか。雌ももの悲しい。出産後1年は乳が出ますが、やがてその量は落ちます。そのころの発情期を見逃さずに、牧場主は素早く人工授精をしなければなりません。この人工授精にも技術や経営など細かい話が様々あります。頭が悪い人間には農業はできない、と言いたくなります(それは農業に限った話ではないでしょうけれど)。
お金もかかります。乳搾りのためのミルキング・パーラーは25万ドル。しかしそれだけ投資したら、一人で1時間に100頭の牛を搾乳できるのです。牛の飼料のために、牧場ではトウモロコシやアルファルファの畑も持っていますが、その収穫に使うチョッパーの使用料は1時間で100ドル。新しい牛舎の建築に20万ドル……
購入した子牛3頭を著者は肥育のための牧場に移します。代用乳、断尾、離乳、耳標つけ、去勢、除角、放牧……著者は子牛に名前をつけません。肉にされる牛に名前をつけないのが慣例だからですし、もし名前をつけたら当初の狙い(観察だけで参加なし)を外れて牛に執着してしまう怖れがあるからです。その怖れを自覚した時点で、すでに著者は「参加」しているのですけれどね。
牛の境遇は様々です。そして、牧場で働く人たちもまた様々でした。著者は「牛」だけではなくて「人間」にも注目するようになっていきます。彼らは「匿名の存在」ではないのです。そして、単なる観察者であるはずの自分が、牛や他人の運命にも関与していることも意識します。そして著者の思いは、自分の過去にも向かいます。すっかり忘れていた思い出が蘇ってくるのです。同時に、自分が「自分の牛」に愛着を持ってしまっていることにも著者は気づいてしまいます。
牛の競りに立ち会い、著者は自分が知っている牛がテイラー社に落札されたことを知ります。この会社はマクドナルドの供給源(の一つ)です。ここの食肉工場を見学でき、さらにそこからマクドナルドまで追跡ができれば(そしてそれを食べることができれば)、著者の目的は達成できるのですが……

牧場で、何かあるとすぐに抗生物質が使われることにも私は注目しました。日本でも、人の2.5倍の量が家畜に使われているそうです。(「安心・安全な畜産物生産技術の開発」) 病気のことだけではなくて、抗生物質を使った方が家畜の成長が良くなるのだそうで、農家が抗生物質を使いたくなるのもわかりますが、その結果が耐性菌の増加なのだったら、ちょっとどこかでストップをかけないと、結局「人類の損」になってしまいそうです。
この抗生物質も含めて、著者は子牛と一緒に過ごす内に、「肉食」(数ある食品の中で人が肉も食べること)と「工業化による肉食」(大量生産・大量消費文明の中で肉を食べること)の問題を分けて考えるようになっています。それができるようになったのは「現場の力」でしょう。逆に、現場を知らずにただ自分のイメージだけで農業について判断するのは、やめた方が良さそうだとも思いました。なにしろ現場の人間でさえ、様々な考え方をしているのですから。



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人間に勝つ機械

2011-01-16 17:20:19 | Weblog
チェスで世界チャンピオンがIBMのディープ・ブルーに負けた(厳密にはディープ・ブルーの2勝1敗3分け)のは14年前のことでした。昨年は日本で将棋ソフトが女流プロ棋士に勝ちました。
で、そんな「人間に勝つソフト(マシン)」は、人工知能の研究や人間の生活に、どんな良いことをもたらす目的で開発されたのでしょう?

【ただいま読書中】『ロボットマンガは実現するか』米沢嘉博 編、実業之日本社、2002年

様々なロボットマンガのアンソロジーですが、それをロボット開発の最前線にいる人に読んでもらってからインタビューをする、という“欲張り”な構成です。
目次(敬称略)
鉄腕アトム「電光人間の巻」(ホンダ:広瀬)、鉄人28号「ロビーのロボット王国」より(タカラ:長洲)、エイトマン「スーパーロボット007」より(早稲田大学:高西)、マジンガーZ「あしゅら軍団」より(トヨタ:北川)、ゲッターロボ「大雪山に地獄を見た」より(フジタ:茶山ほか)、ロボット刑事「第一話」より(東京工大:広瀬)、機動警察パトレイバー「GAME MAKER」より(千葉大:野波)、ドラえもん「走れ! ウマタケ」「テストロボット」「人間あやつり機」より(ソニー:藤田)
編者は私とほぼ同世代ですね、マンガの選択が一々頷けたりします。で、インタビューを受ける研究者にも同世代がいて、彼らが子供の時に読んだり見たマンガやアニメの影響を語るシーンでは、勝手にこちらはノスタルジーの世界に浸ってしまいます。
「ロボット」と言っても、こうしてみると本当にいろんなタイプがあります。そして、研究者もいろんな研究をしています。私が子供の時には「人型のロボット」は「夢」でしたが、21世紀になって(少なくともその研究は)「現実」になっています。もちろん本書の出版年を見たらわかるように、すでにここで研究者が語っていることは現時点ではすでに“古く”なってはいますが、それでもその研究の過去の蓄積やこれからの方向性などについて読むと、わくわくします。
インタビューの中では、機械的なメカニズムと制御系、ロボットに何を求めるのか、などが複雑に絡み合っています。そして必ず語られるのが「夢」です。ロボット研究では「夢」が原動力となっているように思えます。そしてその夢のベースとなったのが、子供時代に触れたロボットマンガやアニメだったように思えます。



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美を感じるとき

2011-01-15 17:28:47 | Weblog
自然の美を感じるとき、私は自分がその自然の一部である幸福を噛みしめることができます。では、人の美しさを感じるとき、私は何を噛みしめているのでしょう?

【ただいま読書中】『伊勢物語』石田穣二 訳注、 角川日本古典文庫、1979年(93年20刷)、583円(税別)

全百二十五段の短篇集です。基本的には「むかし、男ありけり。」で始まって、その男が何かをして歌を詠む、という形の作品が連なっています。源氏物語などに大きな影響を与えた、とか、学術的に重要な作品だそうですが、私は素人の特権でただ楽しみのために読みます。
第六段の、せっかく盗み出した女を鬼に食われてしまう挿話は、どこか別の本でも読んだ覚えがあります。第九段の「あづまの方に住むべき国求めにとて」都落ちをして隅田川で「都鳥」を見る話は、高校の国語の教科書で出会ってます。そういえばこの頃の「関東」は「関所より東」ですから、この話に登場する、三河や駿河もまた「東」に属していたんじゃないかな(授業中は隅田川を「関東」と思っていましたが、後段に「陸奥(みちのくに)」が登場しますから、そちらが今で言う「関東地方」じゃないかな)。結局落ちて落ちてとうとう武蔵から下総まで行ってしまったのですが、一体この「男」は何を考えていたのでしょう? 第十二段には「人のむすめを盗みて、武蔵野へ牽て行くほどに」とあるので、女関係のトラブルのようですが。ところが武蔵でもちゃっかり地元の女に求婚しているのですから(第十段)どこでもやってることは同じようです。しかもそこで「歌さへぞひなびたりける(歌も田舎くさい)」(第十四段)とか「さるさがなきえびす心(機微を解さない野暮ったい心)」(第十五段)とか女に向かって言いたい放題です。田舎者の読者としては、都と同じ環境を求めるのなら都にいなさいよ、と言いたくなりますな。
私のお気に入りの言葉遊びは第二十段。三月なのにきれいな紅葉の枝を折って女に送って「君がため手折れる枝は春ながら かくこそ秋の紅葉しにけれ」。返しの歌が「いつのまに移ろふ色のつきぬらむ 君が里には春なかるらし」。「春なかるらし」が「春がない=秋ばかり=飽きるばかり」というのはもう返す言葉もありません、です。
第二十三段の「筒井筒」、女の歌の「くらべこしふりわけ髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべき」で私は吉田拓郎の「結婚しようよ」をストレートに連想します。男女逆ですけどね。
まあこんな感じで、一つ一つの段が楽しめます。じっくり最初から読むも良し、気が向いたときにぱらっとめくって出てきた段を読むも良し。お好きにどうぞ。物語はあなたの視線をじっと辛抱強く待っています。



地団駄

2011-01-14 17:52:39 | Weblog
民主党大会の後のインタビューで、小沢チルドレンらしい若手の国会議員が口角泡を飛ばして「自分たちに発言させないとはけしからん」と盛んに民主党執行部への不満を言っていました。
私がその姿をテレビ画面で見て連想したのは、昔のデパートで「いやだいやだ、おもちゃを買ってくれなきゃいやだ」と地団駄を踏んでいる子供の姿です。
自分の感情の発露も大切でしょうし、ニュースで流れることで党の上層部に何らかの影響が出ることも狙っているのでしょうが、いやしくも国会議員は公人なのですから、自分の言動が全国どころか全世界に流れていることも計算に入れてカメラに写る必要があるんじゃないですかねえ。少なくとも私は民主党に対してネガティブな印象を持ちましたよ。

【ただいま読書中】『ブラック・ボックス ──航空機事故はなぜ起きるのか』ニコラス・フェイス 著、 小路浩史 訳、 原書房、1998年、1800円(税別)

英国と米国の戦後の旅客機事故の主原因を分析し関連づけ包括的枠組みを作ろう、というとんでもない狙いで編まれた本です。だから本書の中心に位置するのは、航空事故調査官です。
ベテラン調査官の論文からの引用「原因はただ一つなどというのは、マスコミのでっちあげである。しかし、正されるべきは怠惰な大衆の方である。みんなこみいった説明を聞くのを嫌うのだ」で本書は始まります。
現在航空機には、(オレンジ色に塗られた)「ブラック・ボックス」が二つ搭載されています。一つは「フライトデータ・レコーダー(FDR)」、もう一つは「コクピット・ボイスレコーダー(CVR)」。どちらも最近はデジタル化されてデータ量が豊富になってきているそうです。事故の時調査官がまず探すのがこのブラック・ボックス。そして現場で得られる情報ももちろん重要です。現場で破片をひっくり返して調査する姿から、調査官には「ブリキ蹴り屋」というあだ名がつけられているそうです。
1974年3月3日(日)パリ北東48kmエルムノンヴィルの森にトルコ航空のDC10が墜落しました。これは、設計ミス・整備不良・政治的圧力・事故防止をするべき政府当局がきちんと仕事をしていなかった、ということから引きおこされた「大量殺戮」でした。(ちなみに、このときの機体は、日本が購入をキャンセルしたものだったそうです。つまりもしかしたらこの事故は日本で起きていたかもしれなかったわけ) 早くからDC10の危険性を警告していた人は、歯噛みします。しかしこの墜落事故によって調査機関に「流血の特権」が与えられ、規制が強化され安全性が高まりました。しかし逆に言えば、人が死ななければ安全性が高まらない傾向があるのです。「事故が起きて初めてガードレールが設置される」のは、日本のことだけではなかったんですね。
本書のはじめに、ブラックボックスがデジタル化されてきていることが書かれていますが、航空機そのものもデジタル化されてきています。その代表(先駆者)がエアバス。乗員の操作に逆らうコンピューター、突然のモード変更(しかもそれが乗員にわかるのは、多くは手遅れになってから)、不慣れな乗務員、フランス国家の態度(とても熱心に原因追究をするが、重大な問題は同じくらい熱心にその存在そのものを否定する)……インシデントや事故が続き、そして94年の名古屋空港に話がなだれ込みます。エアバス社は自動操縦装置の変更やマニュアルの改訂を続けますが、事故はさらに続きます。もっとも、冷静な人から見たらこれは「エアバスの問題」ではなくて「人間の感覚と乖離した自動操縦装置の問題」であるそうです。
気象も重要です。着氷、火山灰、乱気流、砂嵐、雷雨……さまざまものが空(あるいは地上)で飛行機を落とそうと待ちかまえています。それらと戦うパイロットの超人的な技倆には感心するしかありません。と思ったら、あまりに情けないパイロットも登場します。なんというか、パイロットも人の子、様々なんですねえ。
「システムとしての安全」がけっこう新しい概念であることに、驚きました。パイロットの疲労を考えて常務時間制限が課せられるようになったのは、アメリカでは1953年・イギリスでは1954年からです。それまで「パイロットは疲労しない」と思われていたわけ。インシデントの秘密報告制度ができたのは1977年。事故があって人が死ぬたびに制度は少しずつ改善されてきたわけです。だけど、おそらく、これからも事故はあり、そしてまた制度は変わっていくことでしょう。人はミスをし、機械は壊れるものなのですから。



デ・ファクト

2011-01-13 18:39:07 | Weblog
てっきり英語だと思っていましたが、調べたら「de facto」で本来はラテン語なんですね。「どういう意味?」と質問してくれた人に感謝です。おかげで私の無知の砂粒が一つ減りました。まだまだ無数に残っていますが。

【ただいま読書中】『ゾルゲ・東京を狙え(下)』ゴードン・W・プランゲ 著、 千早正隆 訳、 原書房、1985年、1800円(税別)

本書の著者は実は反共主義者だそうです。しかし、これまで世界で出版されたゾルゲ事件に関する膨大な文献がそれぞれのイデオロギーを反映したものであることに不満を持ち、膨大な資料に当たった上で歴史学者として極力客観的に記述しようと努めたのが、本書だそうです。
1940年、特高の手が少しずつゾルゲたちに迫ってきました。ゾルゲは特高に断続的な監視を受けるようになり、自宅は憲兵の定期的な訪問を受けます。尾崎は、内閣嘱託・満鉄調査部という“地位”に守られていましたが、その部下が逮捕されることで事態が動き始めます。
海外では、ドイツがオランダとフランスを占領。日本はそれらの国の植民地へ兵を進めます。“勝ち馬に乗”ったのです。ただしそれが支那事変の解決につながるかどうかは、大きな疑問でした。そういった中で、東京から発せられるゾルゲの情報は、ソ連にとっては非常に重要な価値を持つものでした。日本とドイツ、両方の動きが読めるのですから。得に仏領インドシナへの日本軍の進出を予告したことでゾルゲの“価値”はさらに高まります。
1940年11月18日「ドイツがソ連に戦争を計画している」とゾルゲは打電します。しかし、ヒトラーがバルバロッサ作戦を発令したのは同年12月18日です(ユーゴスラビア侵攻を優先したので、バルバロッサは翌年に延期されましたが)。日本にやってくるドイツ将校たちにとって、あるいは外交官たちにとって、問題は「ドイツがソ連を攻撃するかどうか」ではなくて「いつ攻撃を開始するか」だったのです。
ゾルゲたちに疑いを持ったのは、日本の官憲だけではありませんでした。ドイツのジャーナリストや大使館員にも、ゾルゲに疑念を懐く者が出てきます。さらにゾルゲは“身内”にもおびやかされていました。無線係のクラウゼンが、感情的な対立をしていたゾルゲへの反発から発信にサボタージュをしていたのです。そのため、大使館で入手したドイツの極秘情報(バルバロッサ作戦発動日)の情報は不十分にしか送られず、結果としてソ連はゾルゲの情報を無視することになってしまいました。
ソ連は東西挟み撃ちになるのか。それはモスクワが絶対に知りたい情報でした。そして、それをするべきかどうか、日本も必死に検討します。北に向かうか、それとも南か。そしてその情報は真っ直ぐゾルゲの所に集まりました。そしてこの時期、ゾルゲがほとんど注意を払っていなかった日米交渉が、その重要性を増していました。7月26日に米英蘭豪は対日経済封鎖を行ないましたが、それは日本にとっては不意打ちで、目をソ連から南方にますます注ぐことになります。尾崎は日本の原油保有量を調べ、民間は半年で備蓄を使い切るので、蘭領東インドへ進出するかアメリカに膝を屈して原油供給を受けるかどちらかしかない、と分析します。ゾルゲは喜びます。日本の対米関係が悪化すれば、ソ連はそれだけ安全になるのですから。さらに尾崎を通じて、日本の政策決定に影響を及ぼそうと政治工作もします。
ゾルゲはついに“確証”を得ます。軍が満鉄に要求していた輸送量増強と予備員の待機の命令、それが中止になっていたのです。日本軍は一時は対ソ戦を準備していたが、それを(一時的にかもしれないが)中止した。ゾルゲはその重要な情報を電信で送ります。スターリンはその情報を信じたのでしょう。極東軍の半数を対独戦に投入しました(それでも半分残したのは、関東軍が「極東軍が減った。チャンスだ」と行動を起こすことを恐れたためです)。
そしてついにスパイ団に警察の手が届きます。もっとも警察の方も驚きました。地下に潜伏した共産党員を追っていたつもりが、とんでもない“大物”を釣り上げてしまったのですから。近衛の側近の一人、そして同盟国ドイツの大使とも近い大物ジャーナリスト、しかもそのスパイが属するのは形式的とはいえ日本の友邦国ソ連。この摘発は日ソ関係に悪影響を与えるのは必須です。当時近衛内閣は倒れる寸前でした。そして外国人の逮捕には司法大臣の許可が必要です。この事件が公表されたら内閣崩壊のきっかけになるのは必至、だったら司法大臣は許可をしないかもしれない、あるいは、同盟国ドイツの権威を失墜させることになるから陸軍から妨害が入るかもしれない、とまで検事は考えました。政治や軍事や外交が絡むので、スパイ摘発も大変です。回りへの影響も考えながら慎重にやる必要があるのです。さらに、治安維持法ではなくて国防保安法を適応するとしたら、その管轄は陸軍省となってしまいます。縦割り行政は大変です。逮捕された一味はただちに巣鴨に移送されました。警察では拷問をされる怖れがあったから、と検事が述べているそうです。司法内部でも拷問に関して意見が割れていたんですね。単純に警察と検察の感情的対立だけかもしれませんが。(本当は拷問があったのではないか、という疑いもありますが、ゾルゲの弁護士は「一般の場合、拘置された日本人の取り扱いは、手荒く思慮に欠けていたが、ゾルゲの取り扱いは、日本でかつてなかったほど良かった」と述べています)
否定・抵抗・虚偽の申し立て・取り引き……そして、自供。人によってその過程は様々でしたが、ゾルゲは1週間の抵抗の後、自供を始めます。
ドイツ側の衝撃がいかほどのものであったかは、想像するしかありません。特に、ゾルゲの親友だったオット(はじめは日本の駐在武官、のちに駐日大使)は、自分が三重に裏切られていた(友情の裏切り、大使館での仕事面での国への忠誠の裏切り、そして自分の妻がゾルゲと浮気をしていた)ことを知って、どのくらいショックだったかと思うと、思わず同情してしまいます。
ソ連の諜報活動のすごさについては、パウル・カレルの著作にも書かれていました。ドイツ軍の戦略について、ヒトラーに近いところから情報が漏れていた(そして情報源は今も不明)、と。ただ、たった一つの情報に頼るのではなくて、極東からもドイツに関する情報を得ようとする態度には、感服します。当時のソ連の諜報部は、複数のジグソーパズルを同時に組み立てるように、いくつもの情報を組み合わせて世界を読み解こうとしていたのでしょう。そしてその手が届いていたのは、日独だけではないはずです。
その情報を集めていたゾルゲは、誰も信じることができず、過重な労働と深酒と乱れた女性関係とオートバイでの暴走でストレスを発散し、常に死と裏切りの気配に怯えていました。部分的には「007」ですが、とてもうらやましいとは言えない人生です。しかし、そのような人生を選択する人が現実にいて、そして世界がそういった人の働きの上にも構築されていること、そのことを思うと、私は「現実」とか「世界」というものにかすかな畏怖を感じます。



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革命

2011-01-12 18:29:58 | Weblog
フランス革命後のヨーロッパで「市民革命」が現実の脅威だったように、ロシア革命後の二十世紀前半には、共産主義は「現実の脅威」でした。だからアカ狩りが行なわれます。ところが敗戦後日本のユニークな点は、本来「プロレタリア」と呼ばれるべき層を「中流」と呼んだことでしょう。どう呼んでも中身は同じですが、呼ばれる方の意識は異なります。プロレタリアは革命に走る可能性がありますが、中流は現状肯定と保身に走ります。こうしてソフトに日本では革命防止が行なわれました。
ところがバブル破裂以降、この「中流」のレッテルがぺろりと剝がれてしまったように私には見えます。するとそこから見えてくるのは……「貧民」と「プロレタリア」。まあ100年前とは違って「プロレタリア」はもう「現実に影響を与える魔法のことば」ではないでしょうが、「貧民」はまだ革命に結びつきそうで、コワイんじゃないです? それとも、結びつくのは、革命ではなくてテロかな? こちらもコワイんですけど。

【ただいま読書中】『ゾルゲ・東京を狙え(上)』ゴードン・W・プランゲ 著、 千早正隆 訳、 原書房、1985年、1800円(税別)

1933年9月6日水曜日、38歳のリヒアルト・ゾルゲは横浜に上陸しました。ドイツにスラブの血が混じった容貌は、美醜両面を兼ね備えているそうです。彼の使命は、大日本帝国にソ連のスパイ網を構築し「日本はソ連を攻撃する計画があるか?」「計画があるとしたら、いつどこでいかなる兵力か?」の答を得ることでした。
ゾルゲは日本語ができないためどうしても日本人の協力者が必要ですが、モスクワ(赤軍第四本部)は共産党とのつながりを日本の警察に記録されている日本人との接触を禁止します。とりあえずの協力者は二人。朝日新聞記者の尾崎秀実と画家の宮城与徳(アメリカ共産党で訓練を受けていました)。ゾルゲは日本に来る前は上海で仕事(ソ連のスパイ網整備)をしており、そこで尾崎と出会っていたのでした。上海でゾルゲはアメリカ人の偽装をしていましたが、日本ではドイツ人ジャーナリストの偽装をすることにします。そのためにゾルゲは、ナチスに入党しドイツの出版社や有力者からの本物の紹介状を得ていました。
日本のドイツ大使館は小世帯で手が足りず、ゾルゲは重宝されほとんどスタッフ扱いとなりました。東京のドイツ人社会(1000家族くらい)でもゾルゲは一種の有名人となります。大酒飲みで女にだらしなくてちょっと怠け者の魅力的な男として。(酒と女に関しては、もうお盛んとしか言いようがありません。これでスパイが務まるのか、と余計な心配をしたくなるくらい)
上海から大阪朝日に配属された尾崎は、「中国の専門家」になっており、朝日が各界の専門家を集めた東亜問題調査会のメンバーに選出されます。ゾルゲにとっては望外のことでした。日本での最高クラスの人脈が“使える”ようになったのですから。さらに、ドイツの駐日武官オットもドイツ陸軍に関する貴重な情報源になります。もっともオットは、ゾルゲはドイツのために働いていると信じていたのですが。
ゾルゲは自分のチームを3つのグループに分け、お互いが接触しないように注意しました。そこに、2・26事件。ゾルゲは反乱軍の声明を翻訳するのに苦労し、日本軍がどこに向かおうとしているのかを突き止めようとします。陸軍武官オットは混乱します。ドイツ陸軍を範として作られたはずの日本陸軍がどうしてこんな反乱を起こすのか。そして、政府がどうしてこの反乱を即座に鎮圧しない(できない)のか、理解できなかったのです(日本陸軍での「昇進」は実力によるものではないため「実権」は下士官や下位の将校が握っていることが特異的、という分析が示されています)。ゾルゲの組織はこのときの経験で“鍛え”られ、情報分析能力がぐんぐん向上します。特に重要だったのは「日本の対外政策は、国内情勢を反映している」という分析でした。国内情勢を見ることで、日本軍がソ連に向かうか中国を南下するかがわかると言うのです。
 1936年12月に二つの世界的“事件”が起きます。イギリス国王エドワード8世が“世紀の恋”で退位。もう一つは、張学良による蒋介石監禁事件。後者に対して尾崎は「国民政府と共産党が和解して、日本に対して共同戦線を張るだろう」という予想を中央公論に発表します。尾崎の名は上がり、近衛文麿のブレーンとも言われた昭和研究会に誘われます。(尾崎は翌年の蘆溝橋事件では、当時の日本の大勢の見方とは違って「中国の抵抗力は強い」という分析を示しています。冷静で優秀な分析マンです) ドイツは困ります。日独防共協定のターゲットはソ連なのに日本が中国に夢中になってしまいそうですし、さらに独中の関係は良かったのですから。しかし大使館に中国の専門家はおらず、結果としてゾルゲのドイツ大使館内での地位はさらに向上します。
近衛内閣が辞職し、平沼内閣となりますが、三国同盟に賛成の陸軍と反対の海軍の対立で「何もしない内閣」となっていました。事態を動かす「引き金」があるとしたら、それはヒトラーの行動です。そしてヒトラーは1939年にチェコを完全併合します。それによりヒトラーは「防共の英雄」から「嘘つき」「侵略者」となり、三国同盟は対ソ連ではなくて対英米目的であることが明らかになります。各国の思惑が交錯し、たとえば日英交渉が進行しますが、そこに独ソ不可侵条約の発表。世界は仰天します。このとき、中国をあきらめる代わりに連合国側に参加する、という選択肢が日本にはありました。あくまで歴史の「イフ」でしかありませんが。ただそうなると、今度は独ソが軍事同盟を結ぶ、というとんでもない進行になったかもしれませんが。スパイたちは多忙を極めます。さらにそこにノモンハン事件が。さあ、大変です。