【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

SMAP解散撤回

2016-01-21 07:23:37 | Weblog

 皆が揃って生番組で謝罪をしたのだそうです。ところで「謝罪の対象」は、誰なのでしょう? 心配をしたファンに対しては謝罪があっても良いでしょうが、それ以外には? よく「世間をお騒がせして」と言いますが、報道がなければ私はそんなことは知らずにすんだわけで、だったら「世間」を騒がせたのはSMAPだけではなくて、マスメディアも“同罪”ですよね。それどころか、謝罪番組はたぶん高視聴率だったはずで、マスメディアは大喜びなんじゃないです? SMAPのメンバーだけが謝るべきなんでしょうか?
 ちなみに「世間」の一員である私は、「中年アイドルというのは、大変だよなあ。ところで音楽のバンドだったらメンバー交代はそれほど珍しいことじゃないのになあ」なんてことは思いましたが、別に不愉快に思ったり騒いだりはしませんでした。だから謝ってもらう必要性は皆無です。

【ただいま読書中】『東海道戦争』筒井康隆 著、 中央公論社、1976年(81年5刷)、950円

目次:「東海道戦争」「いじめないで」「しゃっくり」「群猫」「チューリップ・チューリップ」「うるさがた」「お紺昇天」「やぶれかぶれのオロ氏」「堕地獄仏法」

 著者の処女短編集です。
 先日『ここがウィネトカなら、きみはジュディ ──時間SF傑作選』(大森望 編)に筒井康隆の「しゃっくり」がタイトルだけ紹介されていたので、あらためて読んでみることにしました。「東海道戦争」はなんとなく内容を覚えています。たしか自衛隊が東西に分かれて合戦をするのだったかな、と思って読み始めると……いやあ、面白い。戦争とメディアの関係がいかに濃厚かが描かれていますが、「お茶の間で観戦できる戦争」どころかここで描かれるのは「皆で参加できる戦争」です。「戦争の童貞」「戦争の処女」たちが戦争に熱狂している様が、これでもか、と描かれます。
 私が読んだのは本書の発行よりはもっと古い年で文庫本だったのですが、後書きを見ると、最初が早川の文庫本で出て、それから中公がハードカバーを出すことになったのだそうです。ちょっと面白い経緯です。
 古い本なんですけどね、「やぶれかぶれのオロ氏」など、昨年の安保法での“ギロン(もどき)”をしっかり思い出させてくれる“新しさ”をまだ持っています。人の想像力は、時代を超えるのかもしれません。


ゾンビの謎

2016-01-20 07:18:59 | Weblog

 映画やテレビではゾンビものに一定の人気があります。ミュージックビデオでは「スリラー」(マイケル・ジャクソン)を超えるものはまず出せないでしょうけれど。見る側の人気だけではなくて、制作側の事情からは「大がかりな仕掛けが不要で、特殊メイクとボロ着があれば良い」というのも好まれる要因かもしれません。ゾンビ役の人もちょっとメイクを変えれば何回でも“再利用”可能ですから人件費の削減もできそうですし。そのためでしょうね、極端な体型のゾンビ、というのはあまり画面に登場しません。印象が強くて再利用が難しいからかな。だけど巨漢のゾンビとかひどい痩せのゾンビとかも、日常生活で出会う確率で存在しているはずなんですけどね。そうそう、子供のゾンビもあまり登場しませんね。たとえ「ゾンビ」であっても「容赦なく子供をやっつける」は映画の“常識”には反しているのかもしれません。

【ただいま読書中】『シリアルキラーズ』ピーター・ヴロンスキー 著、 松田和也 訳、 青土社、2015年、3600円(税別)

 アメリカ人の「感覚」で「真珠湾」と「9・11」の「中間点」は1963年の「JFK暗殺」だそうです。そのとき世界は確実に不気味で不確実なものに変容したのです。大量殺人もこの時点から増加した、と、殺人事件に関する実際の統計はともかくアメリカ人の感覚では捉えられています。当時「シリアルキラー」という言葉は知られていませんでしたが、たしかにその活動は盛んになっていました。1800~1995年のアメリカで、連続殺人事件の半数近くは最後の20年間に集中しているのだそうです。「切り裂きジャック」以降「連続殺人者」は貴族とか外科医のような人体解体の特殊技能を持つ者とか異常者という「我々とは違う人間」として扱われていました。しかし1970年代以降の「ポストモダンのシリアルキラーズ」は「我々と同じ人間」の階層出身者が多くいることが特徴です。
 典型的なシリアルキラーは、知性が平均以上の白人男性ですが、他の人種や女性、それから二人組(以上)のキラーズもいます。もっとも多い動機は、性的支配。多くの犠牲者は殺害前あるいは殺害後に強姦されています。一般的な殺人事件では、犯人と犠牲者の間には何らかの人間関係があることが多いのですが、シリアルキラーの場合にはその関係が無いかあっても極めて希薄なことが特徴です(だから犯人が捕まりにくいのです)。
 人数によって「シリアルキラー」を定義づけようという試みもあります。FBIは「3人(以上)(それぞれの殺人の間に“クーリングオフ期間”が存在)」を主張していますが、著者は「2人」で十分だと考えています。シリアルキラーの「分類」も混乱しています。FBIは当初「秩序型」と「無秩序型」に分けていましたが、今はもう何でもありのような混沌状態です。
 著者は、二人のシリアルキラーにそれと知らずに接近遭遇をしていました。一人はリチャード・コティンガムという男で、ニューヨークの安ホテルのロビーでのすれ違い。コティンガムが二人の解体作業を終えて放火をしてそのまま退散をしようとしていた瞬間でした。もう一人はモスクワで、アンドレイ・ロマノヴィチ・チカティーロ(53人も殺した男です)。「陰謀」をゴルバチョフに訴えたい、と著者に話しかけてきたのですが、あまりに様子が変なので著者はさっさと別の人にインタビューをしてしまいました。チカティーロの逮捕3週間前のことです。ともかく、あとになって「自分はシリアルキラーと出会っていたんだ!」と気づく経験を2回もした著者は、「気づかずにもっとたくさんのシリアルキラーに出会っているのではないか?」という疑問を持ちます。……私も持ちます。私もそれと知らずに出会っているのではないか、と。
 「羊たちの沈黙」や「FBIのプロファイリング」によって「シリアルキラー」はアメリカ社会で大きく扱われるようになりましたが、誇大評価も横行している、と著者は捉えています。マスコミは売るため、FBIは予算獲得のためにキラーや犠牲者の数字をどんどん膨らませたのではないか、と。
 ただ、シリアルキラーが1970年頃からどんどん増えていることは間違いないようです。ただ、そういった“ブーム”は歴史上初めてのことではありません。著者によるとこの歴史でシリアルキラーが疫病のようにたくさん活動する“ブーム”は何回かあったそうです。ただ、今のはちょっと殺人者の数が多すぎるようですが。
 シリアルキラーにとって「人命」は軽いものです。しかし「社会」からも、「シリアルキラーに殺された人々」は「事件の小道具」扱いでしかありません(売春婦などは殺されて当然、という扱いをされることもあります)。つまり、社会も人命を軽んじているのです。
 古代から連続殺人や大量殺人はありましたが、「快楽殺人」という言葉(と概念)が登場するのは1880年代です。そして、それを待っていたかのように「切り裂きジャック」が登場します。そして、ヨーロッパの真似をするかのようにアメリカにも、さらにはソ連や中国にもシリアルキラーが活躍する時代がやって来ました。
 シリアルキラーは、次々と殺人(と強姦・解体・食人などのおぞましい所業)を犯します。まるでそれを見習ったかのように、著者はシリアルキラーの行動を次々と読者の前に提示します。どのような生育歴があり、殺人の前にどのような軽微な犯罪から始めたか、そして最初の殺人からあとはどのように獲物を狩っていったかを詳述するのです。その内容は人によって本当に様々です。小児虐待を受けた人が多いのですが、そうではない人もいます。殺してから強姦する人もいれば強姦してから殺す人もいます。
 最後の章は「シリアルキラーから生き延びる」とありますが、実際には「どうやったらシリアルキラーのリスクを引き寄せるか」の説明になっているようです。しかし「シリアルキラーの典型像」というのが存在しない以上、「予防」は大変困難です。ただ、FBIの調査では、犠牲者が捕まったとき、抵抗をしなければ全員殺されましたが、抵抗をした人は28人中3人は命が助かりました。抵抗をしたら暴力が激化する可能性は大ですが、それでも生存率がゼロよりはまし、ということです。一番有効そうなのは、話しかけて「自分には個性がある」ことを示すことのようです。シリアルキラーから見た犠牲者は自分の欲望を満たすための「記号」でしかありませんから、それが「個性を持った人間」ということになると殺しにくくなるのだそうです。実際にそれで命が助かった事例が数人紹介されています。ただ、命は助かっていますが、全員強姦はされています。
 結局、シリアルキラーから身を守るためには、被害妄想的な行動をするしかない、という淋しい結論になりそうなのですが、それでもひどい目に遭うよりはマシですよねえ。まったく、もしもシリアルキラーが社会の産物なのだとしたら、なんて世の中になってしまったのでしょうか。


バスいっぱいの大学生

2016-01-19 07:08:07 | Weblog

 大事故で私もそれなりの衝撃は受けていますが、ふと変なことが気になりました。事故は平日でしたが、どの大学でも授業はない日だったんです? もしかしたらセンター試験会場用で東京の大学はどこも閉鎖状態だった?

【ただいま読書中】『霧笛』大佛次郎 著、 未知谷、2009年、2200円(税別)

 “未開国”日本のヨコハマ新開地。洋館に奉公する千代吉はひょんなことから、自分が仕える主人クウパーの現地妻お花とそうとは知らずに知り合い、深い仲になってしまいます。
 ヨコハマで人々を支配するのは「力」です。洋館の内部は治外法権。西洋人の「主人」は日本人(やインド人など)の使用人に絶対的な権力を持っています。そして日本人同士もまた「力」によって人間関係を維持しています。千代吉は一応堅気の人間ですが、裏社会の人間に一目置かれているのは、いくら殴られても音を上げずに反撃をしてくる「強さ」を持っているからです。そしてお花は、そういった千代吉の強さに惹かれます。
 面白いのは、ミラーニューロンの働きについて著者が述べていることです。もちろん著者が「ミラーニューロン」という言葉やその概念を知っていたとは思えませんが、それが人間関係の中でどのような機能を果たしているかは理解していたようです。
 しかし「力による人間関係」は、もしも「力がある人間」が少しでも弱みを見せたら、崩壊します。そして、支配されている人間はそういった弱みに通暁しているゆえに、「力がある人間」が見せる弱みを見逃しません。千代吉は、絶対的な権力を持つ主人には「絶対的な権力」の行使を求めます。しかしその主人にも弱みがあることを発見したとき、実は自分にも弱みがあることを発見してしまいます。
 本書の「日本」は、私にとっては完全な「異国」です。明らかに私がなじんでいるのとは違う「文化」と「規範」で人々は動いています。著者はその異質さについていちいち説明をしてくれませんが、とりあえずは「そういうものだ」で楽しむしかないようです。いや、実際に楽しめる世界です。ちょっと大佛次郎の本も読み返す必要がありそうです。


笑顔の隣

2016-01-18 06:53:55 | Weblog

 たまに実に良い笑顔をしている人に出会うことがあります。そんなときこちらも幸福のお裾分けをしてもらった気分になりますが、そういった笑顔の“隣”には何が寄り添っているのだろう、と思うことがあります。

【ただいま読書中】『音のない世界と音のある世界をつなぐ ──ユニバーサルデザインで世界をかえたい!』松森果林 著、 岩波ジュニア新書、2014年、860円(税別)

 2011年の大震災で、障害者の死亡率は健常者の倍以上でした。千葉に住む聴覚障害を持つ著者にとっても「危険」は「揺れ」だけで、「食器が砕けたりする音」「防災無線の音」は一切届いていませんでした。「危険は静か」だったのです。メールはつながらず、情報を得ようとつけたテレビでも、すぐに字幕がついたのはNHKだけでした(ただしNHKは22時に字幕放送は終了。日本テレビは17時から字幕を始め、25時間継続したそうです。入力作業をした人たちには、頭が下がります)。
 「ユニバーサルデザイン」ということばがありますが、大災害時に障害者を情報から遠ざけることで余計に殺すことがないようにするための「デザイン」も必要です。ではその「デザイン」はどのようなもの? ここで重要なのが、健常者と障害者の両方のことがわかる人でしょう。
 「音がないことによる不便」はたとえば「防災無線が聞き取れず避難が遅れる」といった命にかかわるもの以外にもいろいろあります。小さな、しかし意外なものが「換気扇が動作中かどうかわからない」。フードにすっぽり覆われている換気扇の場合、うっかりつけっぱなし、ということが多いのだそうです。電子レンジの終了音も聴覚障害者には無意味です。著者が体験した笑い話の部類ですが、電気掃除機のプラグがコンセントから抜けても聴覚障害者は気づかずに“掃除”を続けるそうです(最近の静音タイプは振動も“静か”で気づきにくいそうです)。私たちが日常生活でいかに音に頼っているか、こういう話を聞くとよくわかります。
 聴覚障害者と言っても簡単ではありません。「ろう者(先天的に失聴。手話がメイン)」「難聴者(状態によってコミュニケーションは音声、筆記、手話など様々)」「中途失聴者(聞こえないけれど話すことは可能)」など、各人の不便さ・コミュニケーション手段・アイデンティティにかかわる“分類”があります。
 著者は中途失聴者です。青春時代に著者が少しずつ音を失っていく過程には真実の響きがあります。その響きを聞き取るために超人的な聴力は不要です。ごく普通の理解力とほんのちょっとの想像力があれば良い。しかし、社会(特に日本社会)が障害者を受容するのは大変ですが、本人が自分の障害を受容するのも大変なんですねえ。日本で支配的な「普通でなければならない」は、障害者や少数派に関しては有害な因子のようです。ともあれ、著者は「ユニバーサルデザイン」の開発に取り組むことになります。
 著者が住むマンションで、「井戸端会議」が「井戸端手話の会」に変貌する話も印象的です。
 シースルーエレベーターも実は「ユニバーサルデザイン」だそうです。事故があって閉じ込められたとき、中に誰かいるかどうか外から確認が容易ですし、ガラスの壁を通して筆談でコミュニケーションが可能です。ただ透明な壁は弱視者には壁と認識できないため、別の工夫が必要になります。
 そうそう、テレビのCMのことも私にとっては意外な話題でした。日本のCMには字幕が付いていないことが当然だったのです。つまり企業にとって聴覚障害者は「お客さま」ではなかったわけ。著者は粘り強く「CMに字幕を」運動を粘り強く継続しています。そして2011年に花王が、14年には国が動き始めます。
 本書を読んでいて、私はつくづく思います。聴覚障害者は音が聞こえなくなっていますが、「健常者」は障害者の声が聞こえないのではないか、と。ユニバーサルデザインの「ユニ」は「1」という意味ですが、これは「一つの世界のルール(健常者のルール)を全員に押しつけること」ではなくて「各個人がすべて別の人間であることを認め、そういった人すべてが不等に扱われずに一つの世界の中で平等に生きることができること」を意味しているのではないか、とも私は思っています。


一つの中国

2016-01-17 07:16:12 | Weblog

 台湾での選挙の結果が出ました。これで中台関係がどうなるのか、おそらくこれからもぎくしゃくとしたものが続くのではないか、と私は予想していますが、私はそもそも「一つの中国(台湾は中国)」というのに疑問を感じています。もともと台湾には「原住民」がいて、そこに漢民族が移住して「ここは中国だ」と主張した、つまり、かつてのハワイと似た状況だった、と私は理解しています。さらに日清戦争後は日本の領土になり、日本の敗戦後は国民党が乗り込んで、やはり「原住民(漢民族が大勢いますが国民党から見たら「日本かぶれした連中」)」を押さえつけて自分の政府を立てました(その典型が「二・二八事件」でしょう)。ともあれ、台湾は少なくとも「中華人民共和国」の一部だったことは歴史的にはないわけです。どうしてそれで「一つの中国」なのかなあ。

【ただいま読書中】『レオナルド・ダ・ヴィンチ ──手稿による自伝』裾分一弘 著、 中央公論美術出版、1983年、3000円

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、素描・素画・手稿は大量に残していますが、完成した作品は意外に少なく40点以下(学者によってはたった9点)だそうです。手稿の内容は自然観察や事実の記録が主で、自身の内面を語ったものはほとんどありません。その手稿を年代別に並べてレオナルドに“自身”で自分のことを語らせようというのが本書の趣向です。レオナルドは1452年(日本では応仁の乱の直前)にヴィンチ村で生まれました。ヴェロッキョ(フィレンツェの画家・彫刻家・金工家)の工房にいつ入ったかは不明ですが、当時の徒弟が14~5歳で修業を始めるのが普通だったことから、レオナルドも1466年前後に徒弟生活を始めたものと推定できます。その徒弟時代の素描(1473年)の文字は、いわゆる鏡像文字です。レオナルドは両手利きで、鏡像文字は左手で書いていたようです。
 才能が注目され、30歳の時にミラノのスフォルツァ家に仕官。この地にレオナルドは20年間留まることになります。ここで完成した美術作品は、板絵「岩窟の聖母」、壁画「最後の晩餐」。未完成に終わった青銅彫刻「スフォルツァ騎馬像」も名前は有名ですね。特に最後の彫刻は、馬に2本足を上げさせると力学的に不安定になるため、手稿では様々な解決策が模索されたことがわかります。結局戦争のために銅は大砲製造に回され、粘土の原型はミラノに進駐したフランス兵に弓の標的にされて破壊されてしまいました。
 30歳までのレオナルドはただの徒弟扱いですから、特殊な教育はうけていなかったはずです。絵画や彫刻の材料・素描のやり方・遠近法・陰影について、くらいでしょう。ミラノ時代にレオナルドは、美術だけではなくて、語学の勉強にも励みます。アルキメデスを読もうとしていた、という説もあるそうです。解剖も行いました。人間の眼球が、生だと切開しにくいので、卵の白身に入れて加熱し、固まったところを切った、と解剖手稿にあります。
 手稿の中に女性の名前はほとんど登場しません。「カテリーナ」が数度登場していますが、実母カテリーナのことかどうかも不明です。有名な「モナ・リザ」は「モデルがリザ夫人」という説からの命名ですが、同時に「モデルはジョコンド氏の夫人」という説から「ジョコンド」と呼ばれることもあります。ところがレオナルドの弟子と親交があったロマッツォ(画家・美術批評家)は「レオナルドの手になる作品若干は、ジョコンドやモナ・リザのごとく美人画として描かれたもので……」と書き残しています。つまり「ジョコンド」と「モナ・リザ」という別の作品があったようなのです。さて、「モナ・リザ」は本当に「モナ・リザ」なのでしょうか? そして、そのモデルは?
 「画家の心得」としてレオナルドが説くのは「勤勉」「清貧」「孤独」です。著者から見るとこの態度は、ルネサンス的というよりは中世的なのだそうですが、レオナルドが育った環境からの影響が強いのではないでしょうか。明治維新だって「江戸時代に育った人」が実行したわけですし。
 解剖学手稿もインパクトのあるものです。自身でおそらく10体以上の解剖を行った成果が描かれていますが、防腐剤も使えない時代で、教科書も師匠もない状況です。おっと、「教科書」はありましたが、これがなんと古代ローマ時代のもの(古代ローマのガレノスの解剖学書が、中世ヨーロッパの「基準」だったのです)。だから、一見精密な図に見えて、けっこう間違っている部分が多いそうです。ただ、彼の功績は「解剖学」ではなくて「解剖の図示」にあると考えることは可能です。実際に彼の筋肉標本のスケッチなど、本当に“リアル”に見えますから。
 レオナルドには実はあまり「学」はなかったのではないか、という指摘はなかなか新鮮でした。それでもあれだけの“業績”を残せたのですからよほどすごい資質を持った人だったのでしょうね。


記憶喪失

2016-01-16 10:45:32 | Weblog

 「記憶を喪失した」ことは記憶している、というのは、一体どういうことなんでしょう?

【ただいま読書中】『いずれは死ぬ身』柴田元幸 編訳、 河出書房新社、2009年、2200円(税別)

 翻訳者による自訳短編のアンソロジーです。
目次:「ペーパー・ランタン」スチュアート・ダイベック、「ジャンキーのクリスマス」ウィリアム・バロウズ、「青いケシ」ジェーン・ガーダム、「冬のはじまる日」ブルース・D’J・パンケーク、「スリ」トム・ジョーンズ、「イモ掘りの日々」ケン・スミス、「盗んだ子供」クレア・ボイラン、「みんなの友だちグレーゴル・ブラウン」シコーリャック、「いずれは死ぬ身」トバイアス・ウルフ、「遠い過去」ウィリアム・トレヴァー、「強盗に遭った」エレン・カリー、「ブラックアウツ」ポール・オースター、「同郷人会」メルヴィン・ジュールズ・ビュキート、「Cheap Novelties」ベン・カッチャー、「自転車スワッピング」アルフ・マクロフラン、「準備、ほぼ完了」リック・バス、「フリン家の未来」アンドルー・ショーン・グリア

 「同郷人会」にはユダヤ人のコミュニティが登場しますが、別にユダヤでなくてもこの話は成立しそうな気がします。人生でずっと険悪な付き合いを続けていた相手に「お前の墓の上で踊ってやる」という“呪い”をかけてしまった男が、その男の葬儀で本当に墓の上で踊るのかどうか、というお話ですが、これが、たしかに「踊る」のですがそこに意外な味付けがされて、奇妙に余韻の多い終わり方をしてくれます。
 「いずれは死ぬ身」も意外な終わり方をします。新聞の死亡欄を担当している記者が、ガセネタをつかまされてまだ生きている人の死亡告知を載せてしまいます。抗議を申し込んできた「まだ生きている人」に謝罪した記者は、一体誰がガセネタを自分に掴ませたのか、と疑問を抱き、意外な真相に辿り着くのですが……「人生」を自覚する、というのはどういうことか、その意味の重さをつくづくと感じてしまいます。
 こういった、翻訳者自選のアンソロジーというのも良いものです。だったら、翻訳者自選の全集なんてのも成立しないでしょうか。優れた翻訳者の“作品”を集めるわけですが、多作の人だったら作家以上のボリュームになるかもしれません。出版社の間の垣根を乗り越える良い手がないかなあ。


同志

2016-01-15 07:06:09 | Weblog

 志を同じくする者たちと一緒に社会を変えていく、というのは「美しい言葉」です。特に坂本龍馬が語ったら。だけどISのテロリストが語ったらおぞましい響きを持ってしまいます。これは言葉の罪ではないでしょうが。
 ただ、もしも社会が「志が同じ者」だけのためのものだったら、違う意見の人間はすべて切り捨てられる、ということなんですよね。私は多様性を重んじるので、できたら異なる志の人間も平和共存できる世界であって欲しいものなんですが。

【ただいま読書中】『事典古代の発明』ピーター・ジェームズ、ニック・ソープ 著、 矢島文夫 訳、 東洋書林、2005年、4800円(税別)


 「古代の人間は、けっこうすごいぞ」ということを「物」をもって語らせる本です。「過去に宇宙人からのテクノロジーによる超文明が」という話を聞くことがありますが、本書の著者によると、古代についてきちんと知れば「宇宙人」は不要になる、とのことです。
 「医学」「輸送」「ハイテク」「軍事技術」「コミュニケーション」「生産活動」「ファッション」「食物・嗜好品・薬」「住居と家庭」「セックス・ライフ」「都市生活」「エンターテインメント」と章が立てられ、まずその章の紹介が面白い文章で行われてから各発明品が次々登場する、という体裁です。たとえば「セックス・ライフ」だと、古代ギリシアでの男性同性愛やバビロニア神殿での神聖娼婦が紹介され、「娼家」は古代中国で“発明”されたこと、西暦250年のシリアでは公衆の面前でのセックス・ショーがあったこと、宦官を最初に役人として採用したのは中国ではなくて紀元前1000年紀のアッシリア王国だったこと(中国では紀元前5~6世紀に宦官についての記録が現れますが、国政で活躍するようになったのは漢の時代からです。古代ローマでも去勢男子は召使いや公務員として大量に採用されました)……いやあ、著者は博学です。そして「媚薬」「人工ペニス」「避妊具」「妊娠検査」「セックス・マニュアル」について述べられ、オマケに「ローマのコンドーム」というコラムが付属しています。いやあ、至れり尽くせりです。
 「事典を読む」というとちょっと奇異な感じもしますが、本書は「読む」べき事典です。いやあ、古代人って、すごいですねえ。さすが、私たちの御先祖様です。


野球らしさと高校野球らしさ

2016-01-14 07:06:03 | Weblog

 球児は3年間「高校野球」をやりますが、プロに入ったらあっさり「高校野球らしさ(ひたむきさ、全力疾走、爽やかさ、など)」を捨ててしまいます。つまり彼らが“演じ”ているのは「野球人らしさ」ではなくて「高校球児らしさ」。高校時代にしか通用しない「らしさ」です。だけど、「3年間限定の“らしさ”」って、本当に「野球の魅力」なんですか? 「らしさ」を演じる/演じさせる、ことは、そんなに重要?

【ただいま読書中】『学生野球憲章とはなにか ──自治から見る日本野球史』中村哲也 著、 青弓社、2010年、1600円(税別)

 戦前日本、東京では6大学野球、関西では中等野球(俗に言う「甲子園」)が熱狂的なファンの支持を受けていました。どちらもマスコミと鉄道会社などの企業とが組んで人気を煽っていました。それが行きすぎて、「選抜大会優勝チームには夏休みに渡米旅行のプレゼント」を行うことで、夏の甲子園大会に選抜優勝チームを参加させないようにする、という“妨害工作”まで登場しています。ともかく、野球ブームは最初から「商業」と密接に関係していたのです。それは露骨に「選手と金」の関係に表れました。1929年春の早慶戦は3試合で入場料収入が4万円、31年秋は3試合で8万3千円。体協の年間予算が1万5千円の時代です。プロ野球がなくても学生野球がしっかりそのかわりとして機能してたのです。特待生制度もすでに大正年間には始まっていました。選手争奪騒動はすさまじく、とうとう選手誘拐まで起きています。さらに「大学は出たけれど」の不況の世の中でも、スター選手は破格の待遇で企業に迎えられていました。
 球場の雰囲気は下品でした。「悪野次」が飛び交い、押しかけた群集がグラウンドになだれ込んで試合が中止になることも。応援団同士の乱闘や選手に対する暴行もあります。こういった「下品」「お金の問題」「フェアプレーの精神の欠如」「学業不良」「不正行為」などが問題となり「国家統制が必要」と述べる人が登場します。学校内部にも「浄化を」という声が上がります。
 1928年(昭和3年)「3・15事件」(治安維持法違反での共産党員一斉検挙)で488人が一斉検挙されましたが、その4割が高専・大学生でした。文部省は衝撃を受け、学生の思想統制に乗り出しますが、その手段の一つがスポーツでした。「公正なる闘志の発揚」「犠牲的精神」「尚武の精神の涵養」「愛国の思念の鼓吹」です。文部省がまず手をつけたのは野球でした。野球界では「自治」を旗印に自力で全国協会の設立を目指しますが、挫折。そのため政府主導で1932年に野球統制令が作られます。これで「ルール」はできたのですが、「商業主義を廃する」という割には大新聞社主催の大会は温存され、シーズン制も徹底されず、この問題は結局戦後まで持ち越されることになります。
 職業野球の確立にも野球統制令が働いています。野球統制令では学生とプロの対戦は禁止されていました。そのため、全米プロ選抜チームの訪日に対して、読売新聞社は「プロ野球選手」をかき集めて「日本選抜チーム」を作り、それを母体に大日本東京野球倶楽部(のちの東京讀賣ジャイアンツ)を結成しました。そして、大日本体育会の野球部会の形で、初めて野球の全国組織が誕生します。そして戦争による中断。
 1945年敗戦後、すぐに野球は復活します。「野球排撃」がいかに反日本的な動きだったか、これを見るだけでわかります。このへんは過去に読書した『野球と戦争 ──日本野球受難小史』(山室寛之)や『昭和20年11月23日のプレイボール』(鈴木明)に書いてありました。46年には中等野球が西宮球場で開催(甲子園は占領軍に接収されていました)。ここで問題になったのが野球統制令の存在です。文部省は野球の弊害防止を主張、対して選手側は国家統制の弊害を言います。CIE(GHQ民間情報教育局)は「自治」と「アマチュアリズム」を是としていました。だから商業主義を排しようとしましたが、文部省や野球界が「新聞社の後援がなかったら甲子園大会が開催できない」という主張も(「自治」を重んじるから)受けいれます。日本側は「大会さえ開催できたら、あとはなんとかなる」という態度だったのですが。学業重視のためのシーズン制についても「研究する」と言って誤魔化します。選抜大会の主催者の所も「主催」と書かずに中野連と毎日新聞社を連名として共催に見えるようにします。なんだか、ビジョンを欠いた場当たり的な対応にしか見えません。さらにCIEは、甲子園大会での巨大な売り上げの使い道が不明朗であることも問題にしています。高野連は結局CIEの指摘を一切黙殺し、そのかわりのように「教育としての野球」を強調する路線を歩むことになります。
 戦後のどさくさに作られた「基準要綱」は50年に「野球憲章」が定められます。ここでは「学生野球の本義」が定義づけられ、それに違反したものは「処分」されることになっていました。もっとも処分の前に“自発的”に退部や出場辞退をする場合もありますが。処分になった例として、審判への暴行・応援団同士の乱闘などがあります。さらに憲章で重視されたのが「プロとの関係」でした。ところがこの対策が「スカウトに大金を見せられてもぴくともしない精神力を養え」という精神論です。制度としての対応を考えないやり方は、不備そのものです。プロとアマ双方が納得できるルール作りをせずに、アマチュアの選手一人の個人責任にすべてを帰するのですから。しかも連帯責任まで押しつけます(1961年春の選抜大会直後に退部してプロと契約した門岡投手の行為に高野連は激怒し、高田高校に1年間の対外試合禁止の処分をしています)。この問題は、新人獲得の経費が天井知らずに上がることに悲鳴を上げたプロ側が65年からドラフト会議を開き、契約金や年俸の限度額を申し合わせることで“解決”しました。この申し合わせがきちんと守られたかどうかは、私は知りません。
 野球部員以外の不祥事でもその高校は対外試合禁止の処分を受けることが知られると、大会直前に有力校の不祥事の密告が増えるそうです。65年まで処分の対象は選手とチームだけでした。だから監督が選手に暴力を振るったことが問題になった場合でも、監督ではなくてそのチームが対外試合禁止処分を受けました。選手は殴られた上に殴られたから出場停止処分になるわけです。
 81年に、「上意下達」の佐伯体制からその逆の牧野体制に高野連が変わり、学生野球が変わり始めます。外国人学校の高野連加盟や女子マネージャーのベンチ入りが認められ、不祥事に対する処分が緩和されるようになりました。本書には不祥事の推移が載っていますが、特に「指導者の不祥事による対外試合禁止処分」が激減しているのが私には良いことのように思えます。罰するべき対象を間違えてはいけません。
 プロとの関係改善とか処分に異議がある場合には日本スポーツ仲裁機構(JSAA)の仲裁が受けられるようになった、とかの変革もあります。ただ、ここでもう一度確認するべきは「アマチュア野球とは何か」の基本でしょう。日本では「そもそも論」は嫌われているそうですが、それを嫌ってその場しのぎを繰り返すから、結局無理がたまってしまうのです。「野球とは何か」「アマチュアとは何か」「アマチュア野球とは何か」「学生野球とは何か」をもう一度じっくり確認してみることは、たぶん無駄ではないはずです。
 


出産適齢期

2016-01-13 06:34:04 | Weblog

 昔は「適齢期」と言えば結婚だったのに、今は出産適齢期という、女性にだけターゲットを絞った言葉が日本で通用しているのだそうです。これは「18~26歳」で、つまりは「卵子が若い内に」ということなのでしょう。だけどたとえば皆さんや親戚の娘が18歳で「出産する」と言ったら、ほとんどの人は「まだ若すぎる」と反対しません?

【ただいま読書中】『ルーシーは爆薬持って空に浮かぶ』河野典生 著、 集英社、1981年、980円

 タイトルを見て吹き出したので、私の“負け”ということで読むことにしました。ビートルズのヒット曲の「ダイヤモンド」を「ダイナマイト」に変えただけなんですけどね。そういえば「ルーシー」は、原人発掘でも大活躍でしたっけ(エチオピアのアウストラロピテクスの発掘で、ビートルズの曲にちなんで「ルーシー」と名付けられた化石があります)。
 で、13篇が収められた短編集なのですが、ちょっと内容の説明が難しい。いろいろ頭を絞ってみたのですが、いろんな曲の楽譜を日本語に翻訳したらこんな短編になりました、と言うのが近いかな。著者はそれぞれの作品を「名曲」を作曲・演奏したミュージシャンに捧げています。たとえば「エアー」(ダラー・ブランドのバンブー・フルート・ソロ)、「トロイメライ」(死を目前にしたロベルト・シューマンが頭の中で演奏したもの)、「いま・春?」(古澤良治郎とリー・オスカー)、「モンスター」(ピンク・レディ)、「「トランジスタラジオ」(RCサクセション)……もちろん「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド」(ザ・ビートルズ)と「ドント・レット・ミー・ダウン」(ジョン・レノン)もございます。


ベルリンの壁

2016-01-12 07:05:47 | Weblog

 この前平成生まれの人と話をしていて、「ベルリンの壁」はなんとか通じましたが「鉄のカーテン」は知らないと言われました。私はどんどん古くなっているようですが、まあ良いです。今の若い人もその内に21世紀生まれの人たちに「アベノミクス? 何それ?」などと言われることになることでしょうから。

【ただいま読書中】『ベルリン 分断された都市』ズザンネ・ブッデンベルク 著、 トーマス・ヘンゼラー 画・著、 エドガー・フランツ 訳、 深見麻奈 訳、 彩流社、2013年、2000円(税別)

 ベルリンの壁にかかわる5人の実話をコミックにした本です。コミックと言っても、題材が題材だし、画調は欧米流のコミックですから、ちっともコミカルではありませんが。
 地下鉄がまだ通っているときに、西ベルリンの学友の身分証明で脱出した少女。ベルリンの壁を越えようとして射殺された男性。ビルの屋上から西ベルリンに張ったケーブルを伝って脱出しようとする一家。東ベルリンで写真撮影をしていて逮捕された青年。18歳の誕生日に「壁が開いた」という噂を聞き、みなと一緒に西ベルリンに入ることができた青年。
 西ベルリン国会議事堂前でのデヴィッド・ボウイのコンサートの話ではブランデンブルグ門が登場します。「東」に向かっても歌いかけるデヴィッド・ボウイの歌声を少しでも聞きたいと、若者がブランデンブルグ門前に集まり、それを恐れた警察は暴力的な反応を示したのです。しかし「民意」を止めることはできませんでした(そういえば昨日デヴィッド・ボウイの訃報が報じられました。好きなミュージシャンの一人だったので残念です)。
 ベルリンの壁の建設は、きわめて精密に計画されていました。しかしその破壊は、混沌の中で進みました。それが最後のコミックで読み取れます。なにしろこの青年は、誕生日の当日まで「自分が西に行ける」なんて信じていなかったのですから。歴史って、なかなか人間の計画通りには進まないもののようです。というか、歴史を自分の思い通りに進めようとか変えよう、と思うことが傲慢の証明なのでしょうね。