瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

関係の中での気づき

2006年10月05日 | 瞑想日記
恐怖は、生きているということの根源的な不条理に根ざしているけれども、私自身の小心さによって恐怖がさらに増幅されていると感じる。自分の小心さゆえの恐怖心が、怒りをも増幅させている。いつも恐怖を感じていることへの怒りと、そういう弱い自分への怒り。その怒りが抑圧されて、自分によく似た身近な人に投影される。

身近な人に接していて、投影された怒りが湧き出るのを感じることがある。怒りが湧き出ることは、それを抑えていた自我を不安定にするから、恐怖にもなる。自我を不安定にしたくないから、その人とまともに対面することを避ける。

そんな心のからくりを感じた。「逃げている」とサティした。自分の恐怖や怒りにまともに対面したくないから、逃げるのだ。しかし、彼との関係でそういう自分に気づけたのは、喜びだった。

こう考えると、自分の周囲のあらゆる人との関係が、自分の心への気づきのチャンスになる。今日、ふだんはそれほど話はしない同僚と階段ですれ違った。その人に自分が何を感じているかをチェックした。親しみを感じるとともに彼の、ある些細な一面に対する、自分の優越感を感じた。そこに「自我」のなぐさみがあった。

関係が比較的薄い人であっても、その人とすれ違ったり、その人を思ったりすれば、必ず何かしら心の反応がある。そうした心の動きに敏感であること。ふたんは、様々なことをかすかに感じてもほとんど意識化せずに忘れていく。そういう些細な心の動きにサティを入れる。

その人の関係で何を思い、何を感じるかで「自我」のありようが見えてくる。職場のどの人に対しても、その人との関係で自分の心の中にどんな反応が現れるか、しっかりとサティして自覚化していくことは、おおくの気づきをもたらしてくれそうだ。これまで感じなかった自分の反応を知ることは、
大切な作業になった。
コメント (2)
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