瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「自我」を眺める眼

2006年10月17日 | 瞑想日記
私たちは、一日のうちにどれほどの雑念を頭によぎらせているのだろう。朝起きて、トイレに入り、ヒゲをそり、顔を洗い、着替え、‥‥家を出るまでのわずか30分の間にも、多くの雑念・思考が生じては消えているのに気づく。その中でサティできるのは、ごくわずかだ。

もし、すべての雑念・思考に気づき、サティが入るとどうなるのだろうか。「自我」の実体がかなりはっきりと見えてくるだろう。この数日、雑念・思考への気づきがいつもよりも少し増している。気づこうという気持ちになっているからだ。

それだけでも私という「自我」の現実に気づく。私のあの言葉や行為を、Aさんはどのようにとったか、Bさんはどう評価したか、などと反芻していることが多い。ほとんど無自覚のうちにかなりそれをやっている。

雑念・思考に気づけば気づくほど、「自我」そのものになりきらずに、それを静かに眺める眼が養われていくような気がする。日常生活の中での雑念・思考への気づきを多くしていくことの大切さを感じる。

一方での自我の雑念・思考について、「それ自体が神性の完全な顕現なのだ」という自覚を持ち続けたい。人の評価を気にしたり、防衛したりしている「自我」そのものが、そのままに受け入れるべきかけがえのない現実なのだ。それは否定すべき何ものでもない。あるがままの私の現実である。
コメント (4)
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