瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

集団的狂気

2005年10月13日 | 読書日誌
◆The Power of Now の翻訳省略箇所
電車のなかでこれを読もうとカバンに入れた本が面白くなかったりすると、最近カバンの中にいつも入れているエックハルト・トールの The Power of Now を読むことが多い。日本語で読んだときは軽く読み飛ばしていたところが、一句一句、心に響いてくる。英語で気になった文章を、家で翻訳本で確認してみたところ、驚いたことにそこは省略されていた。どこが省略されているのか、いちいち確かめたことはないが、翻訳本の方は、以外とそんなところが多いのかもしれない。

翻訳本『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の偶然発見した省略箇所は、第6章、第2節の「言葉の奥にある真実をつかむ」の後半部分である。翻訳本の149頁以降だ。改めて監修者の言葉を読んだら、削除部分があるとは断っていたが。

◆集団的狂気
気になった文章は、こんな風になっている。「あなたがエゴに根ざした心によって駆り立てられているかぎり、あなたは集団的な狂気の一部なのである。」 

人類は、その長い歴史の中で、そして現在も、狂気としか言えないようなあまりにも多くの殺戮や残虐行為を繰り返してきた。そして、自分たちの生存を脅かすような自然破壊を推し進めている。それを狂気といわずして何といおうか。わたしたち一人一人のエゴ・マインドが寄り集まって、この狂気を作り上げているのだ。

なぜこの部分に興味をもったのかというと、わたしたち一人一人の抑圧され、解放されない心が、集団的な無意識を作り上げ、それがひとつの人格のようになって、集団的な残虐性を発揮してきたのは文字通り事実だと思うからだ。わたしが、岸田秀による国家やその歴史の精神分析に引かれるのも、わたしたち一人一人の「ふつうの」エゴ・マインドが集合として作り上げる狂気に関心があるからだ。

個人としてなら何とかコントロールが効いても、集団としての抑圧された心は、押さえがきかない。だからいまだにこれほどに戦争や暴力が耐えない。一人一人の「ふつうの」心、多少とも抑圧した心が、集団的狂気の一部となってしまう。民族や国家の集団的狂気は、わたしたちの「ふつうの」心の真の姿を描き出しているのだ。
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