サティへの意欲が低下している大きな理由は、「思考する自我」としての私を相対化する視点を見失っているからかもしれない。
調子がよかった頃は、サティが入るとともに「思考に埋没する自我」である私を突き放して見る視点が実感されていた。それは、私が一瞬一瞬どのような傾向のことを考えているかという内容が見えてくるというだけではなかった。「思考する私」を上から全体として見ているような視点があった。この視点が確たるものになれば、もはや思考のコントロールは不可能ではない、という感覚もあった。
なぜそれを見失ったのか。それだけサティが少なり、思考に埋没している時間が多くなったからか。はっきりとは分からない。サティが多くなれば、思考を突き放して見る視点も強まり、さらにサティへの意欲が高まるという相乗効果はあっただろう。注意しておきたいのは、「思考する自我」を上から見る視点を自覚すること自体が、さらに「自我」にとっての「成果」と感じられていることだ。そこにもまたサティが入っていかなければならない。
「思考する自我」を相対化して見る視点を忘れていたと気づいてからは、意識的にそういう視点を取り戻そうとしている。サティへの意欲も回復しつつある。
調子がよかった頃は、サティが入るとともに「思考に埋没する自我」である私を突き放して見る視点が実感されていた。それは、私が一瞬一瞬どのような傾向のことを考えているかという内容が見えてくるというだけではなかった。「思考する私」を上から全体として見ているような視点があった。この視点が確たるものになれば、もはや思考のコントロールは不可能ではない、という感覚もあった。
なぜそれを見失ったのか。それだけサティが少なり、思考に埋没している時間が多くなったからか。はっきりとは分からない。サティが多くなれば、思考を突き放して見る視点も強まり、さらにサティへの意欲が高まるという相乗効果はあっただろう。注意しておきたいのは、「思考する自我」を上から見る視点を自覚すること自体が、さらに「自我」にとっての「成果」と感じられていることだ。そこにもまたサティが入っていかなければならない。
「思考する自我」を相対化して見る視点を忘れていたと気づいてからは、意識的にそういう視点を取り戻そうとしている。サティへの意欲も回復しつつある。
そして、人は如何なる虚妄の所産によっても、虚妄を超えることはできない。 けだし、人は真実によってのみ虚妄を破り、虚妄を超えることができるのであるからである。
それゆえに、こころある人は、虚妄と偏見の根たると我執(我ありという思い)と愛執(我がものという思い)とを離れて、人と世の真実を見極め、真実によって真実にやすらぎに至れかし。 そこに至ったならば、憂いがないからである。
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