瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「私」:限りあるもの(2)

2007年01月31日 | 瞑想日記
「私」(という観念)には、いつか終わりが来る。それはやがて滅び、あとかたもなく消えていく。そのことに気づくとき、「私」(という観念)が成り立つのに確たる根拠は何もないことにも気づく。

問題は、この事実をどれだけ深く気づくかだろう。たんに観念的に分かっているだけの場合と、ごまかしようもなくその現実の前に立たされる場合との間には、大きな開きがある。「私」(という観念)がやがては消滅することを如実に実感してしまえば、それにしがみつくことはもはや無意味となるのだろう。

私自身、観念的に分かっているだけの場合とほとんど違いがないから、いまだに「私」にしがみついている。しかし、サティは確かに、「私」という観念の根拠のなさ、虚構、幻想、はかなさ‥‥という性質に気づかせる働きをもっている。思考に埋没せず、そのつど思考にサティをしていると、「思考する私」、「思考としての自我」が相対化され、その無明の姿が見えてくる。

心の痛みや苦しみに気づくだけではなく、傷ついたり、苦しんだりしている「私」にそのつど気づきが入るなら、痛みや苦しみは「私」を解き放っていくための学びの機会となっていくのだろう。

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