帰宅してすぐ風呂に入った。湯船につかっているときにふと考えていたこと。仕事で、他の係が作った書類をチェックしていて、少し重要なミスを見つけ、報告した。その件をぼんやり反芻していて、「思考」とラベリングした。湯船につかってのんびりしたときに、この件がふと思い出されるのは、そこにささやかな「手柄」意識があり、得意げになっているからだ。実際には得意になるほどのものではないのだが。
このとき、サティをいれず想念・思考が浮かんでは消えるままにしているのと、思考に気づき、自慢げな自我に気づいてサティをするのとでは、やはり大きな違いがあるのだろう。
得意げな自我を批判するのではない。ただ、そういう自分に気づく。そういう思考をして何かをもう一度確認したがっている自我に気づく。それだけでいい。そこに微妙な変化が生じるのだ。
思考に埋没しているのと、そういう自我の思考に気づいていることとの違い。毎日、数え切れないほど浮かんでは消える思考の何割かに気づいていくだけでも、違いは確実に生じる。そういう自覚化に毎日、毎時間あくことなくチャレンジしていくこと。
このとき、サティをいれず想念・思考が浮かんでは消えるままにしているのと、思考に気づき、自慢げな自我に気づいてサティをするのとでは、やはり大きな違いがあるのだろう。
得意げな自我を批判するのではない。ただ、そういう自分に気づく。そういう思考をして何かをもう一度確認したがっている自我に気づく。それだけでいい。そこに微妙な変化が生じるのだ。
思考に埋没しているのと、そういう自我の思考に気づいていることとの違い。毎日、数え切れないほど浮かんでは消える思考の何割かに気づいていくだけでも、違いは確実に生じる。そういう自覚化に毎日、毎時間あくことなくチャレンジしていくこと。
例えばサティをし続けて、ずっとサティし続ける?
のでしょうか。素朴な疑問です。
果てしない(終わりの無い)旅行だということに。
「純度の高いサティが持続する→サティの目的である智慧が生じる」
というのが記憶にあります
サティは目的ではないということですけど、じゃ智慧ってなにということになります
なるほど、それなら納得です。
結局私は、ご質問にあったような、ヴィパッサナー瞑想の行きつく先は、という問題にあまり関心がないのです。何かの本で調べて、書き写すことはできるでしょうが、それもあまり意味のあることとは思えませんでした。
では、私がどんな関心からヴィパッサナー瞑想を行っているかは、これまでの日記でも折に触れて書いてきていますし、これからも何度もいろいろな形で触れていくと思いますので、そちらをお読みください。
ただ 少し疑問に思っただけですから。
僕は坐禅の行き先に興味があります。
こうなりたいという願望があるというよりも
正念の着眼に達しないとヤバイという
危機感があるのかな。
でも それとこれとは別ですから。
菩提心を持ち、正しく念じようと思います。
正しく念じるということは菩提心を捨てること
ですから同じことです。
ようやく大学を卒業しました。明日あたりに
禅寺に電話しようと思います。