瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

永遠にポイントを逃す

2006年03月18日 | 読書日誌
◆『存在することのシンプルな感覚』より

「精神的な悟りを得たいという欲望そのものは、実際にはエゴの、いつも何かを獲得していたい、という傾向性そのものにほかならない。したがって、悟りを求めようとすることそのものが、悟りを阻むことになる。完全なる修行というのは、悟りを求めようとすることにはない。むしろ、その動機の根源を尋ねることにある。あなたは明らかに「今」というものを回避しようとしている。しかし「今」そのものが答えを握っているのである。永遠に求め続けるということは、永遠にポイントを逃すことになる。あなたは、常に、すでに悟っているのである。したがって、「スピリット」を求めるということは、「スピリット」を否定することでしかない。自分の肺や、自分の足を求めるということと同じであり、ほかに「スピリット」を求めることはできない。」p139(「パラダイムの戦い」)

悟りを得ようとする心の動機、その根源にさかのぼること。悟りの代替物として、常に何かを得ようとする心。「今」に不満だから何かを得ようとする。つまり、「今」の回避。

ヴィパッサナー瞑想のひとつの働きは、動機の根源にさかのぼる心随観にあるだろう。しかし、そのためには、やはり何日間かのまとまった集中瞑想が必要なのだろうか。

ウィルバーの興味深いところは、上のように言っておきながら、やはり初歩的な修行を認めていることだ。しかしそれは、悟りを獲得しようとする瞑想だけではダメだと「雷のような一喝」をとどろかせるためだというのだ。もちろんウィルバーの修行についての理解は、これだけのものではない。追って取り上げていくだろう。

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