ミンデルのプロセス指向心理学の考え方は、私がこれまでヴィパッサナー瞑想の合宿などで経験してきたことを、深い次元から説得力のある言葉で再確認してくれる。
彼はは身体と夢とを同じ源流から流れ出た支流と考えて、その「つながり」「関係性」を注意深く観察する。体の症状も夢と同様に無意識の創造的な発現である。夢に意味があるように身体に起こっていることにも意味がある。それは単に悪いものではない。夢と身体症状は、お互いに分身であり、夢のイメージも身体の症状も根元は同じと考え、その共通の根元を夢と身体の一体になった「ドリームボディ」と名づけた。
瞑想合宿では、様々な身体症状が現れることは、多くの参加者が体験し、私自身も経験した。腰痛、肩こり、頭痛、喘息‥‥。しかもそれが、合宿中に何らかの心理的な洞察とともに消えていくこともある。瞑想中に出現する身体症状とイメージや夢とを、同じ根元からの「創造的な発現」ととらえることは、私自身体験からしても深く納得できる。
タオ、「大きな自己」、つまりドリームボディは、夜眠っているときだけではなく、病や身体症状、さらに他者(との関係)のなかにも何らかの形で、常に介在している。現実の中にはいつもドリームボディが流れていて、それは自らの表現する媒体を探しているのだ。日常のあらゆるところにドリーミングからの働きかけが潜在している。
その働きかけをいかに感じ取り、その大いなる流れにいかに従っていくか。日常的な言葉では明確に捉えることができない、かすかな(センシェントな)傾向を知覚する注意力を鍛え直すことができれば、日常生活の背景に潜むドリーミングの力を生きることが可能となる。驚くべき畏怖の念をだかせる現実が開けるのだ。
ヴィパッサナー瞑想でいうサティは、ドリーミングからの働きかけを感じ取るための、きわめてすぐれた方法であると私は思う。身体感覚に中心対象を設定し、それにサティを続けるが、中心対象をはずれて思考やイメージが生じたら、それはそれでありのままにサティを続けていく。これは、センシェント(かすか)な傾向を知覚する注意力を鍛える優れた方法だろう。日常生活におけるかすかな心の動きやイメージ、身体からのシグナルもサティによって自覚されやすい。
彼はは身体と夢とを同じ源流から流れ出た支流と考えて、その「つながり」「関係性」を注意深く観察する。体の症状も夢と同様に無意識の創造的な発現である。夢に意味があるように身体に起こっていることにも意味がある。それは単に悪いものではない。夢と身体症状は、お互いに分身であり、夢のイメージも身体の症状も根元は同じと考え、その共通の根元を夢と身体の一体になった「ドリームボディ」と名づけた。
瞑想合宿では、様々な身体症状が現れることは、多くの参加者が体験し、私自身も経験した。腰痛、肩こり、頭痛、喘息‥‥。しかもそれが、合宿中に何らかの心理的な洞察とともに消えていくこともある。瞑想中に出現する身体症状とイメージや夢とを、同じ根元からの「創造的な発現」ととらえることは、私自身体験からしても深く納得できる。
タオ、「大きな自己」、つまりドリームボディは、夜眠っているときだけではなく、病や身体症状、さらに他者(との関係)のなかにも何らかの形で、常に介在している。現実の中にはいつもドリームボディが流れていて、それは自らの表現する媒体を探しているのだ。日常のあらゆるところにドリーミングからの働きかけが潜在している。
その働きかけをいかに感じ取り、その大いなる流れにいかに従っていくか。日常的な言葉では明確に捉えることができない、かすかな(センシェントな)傾向を知覚する注意力を鍛え直すことができれば、日常生活の背景に潜むドリーミングの力を生きることが可能となる。驚くべき畏怖の念をだかせる現実が開けるのだ。
ヴィパッサナー瞑想でいうサティは、ドリーミングからの働きかけを感じ取るための、きわめてすぐれた方法であると私は思う。身体感覚に中心対象を設定し、それにサティを続けるが、中心対象をはずれて思考やイメージが生じたら、それはそれでありのままにサティを続けていく。これは、センシェント(かすか)な傾向を知覚する注意力を鍛える優れた方法だろう。日常生活におけるかすかな心の動きやイメージ、身体からのシグナルもサティによって自覚されやすい。
なるほど、「夢見」をそんな風に捉えることもできますね。「日常世界」と「夢の世界」を、それぞれの生命や個人に特有の「構築された世界」という意味では、同じだととらえる。
ミンデルは、夢も身体症状も、タオからの働きかけととらえるわけですが、夢はそのような多様なアプローチを可能にする不思議な世界ですね。