瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

サティとドリームボディ

2006年09月18日 | 読書日誌
ミンデルのプロセス指向心理学の考え方は、私がこれまでヴィパッサナー瞑想の合宿などで経験してきたことを、深い次元から説得力のある言葉で再確認してくれる。

彼はは身体と夢とを同じ源流から流れ出た支流と考えて、その「つながり」「関係性」を注意深く観察する。体の症状も夢と同様に無意識の創造的な発現である。夢に意味があるように身体に起こっていることにも意味がある。それは単に悪いものではない。夢と身体症状は、お互いに分身であり、夢のイメージも身体の症状も根元は同じと考え、その共通の根元を夢と身体の一体になった「ドリームボディ」と名づけた。

瞑想合宿では、様々な身体症状が現れることは、多くの参加者が体験し、私自身も経験した。腰痛、肩こり、頭痛、喘息‥‥。しかもそれが、合宿中に何らかの心理的な洞察とともに消えていくこともある。瞑想中に出現する身体症状とイメージや夢とを、同じ根元からの「創造的な発現」ととらえることは、私自身体験からしても深く納得できる。

タオ、「大きな自己」、つまりドリームボディは、夜眠っているときだけではなく、病や身体症状、さらに他者(との関係)のなかにも何らかの形で、常に介在している。現実の中にはいつもドリームボディが流れていて、それは自らの表現する媒体を探しているのだ。日常のあらゆるところにドリーミングからの働きかけが潜在している。

その働きかけをいかに感じ取り、その大いなる流れにいかに従っていくか。日常的な言葉では明確に捉えることができない、かすかな(センシェントな)傾向を知覚する注意力を鍛え直すことができれば、日常生活の背景に潜むドリーミングの力を生きることが可能となる。驚くべき畏怖の念をだかせる現実が開けるのだ。

ヴィパッサナー瞑想でいうサティは、ドリーミングからの働きかけを感じ取るための、きわめてすぐれた方法であると私は思う。身体感覚に中心対象を設定し、それにサティを続けるが、中心対象をはずれて思考やイメージが生じたら、それはそれでありのままにサティを続けていく。これは、センシェント(かすか)な傾向を知覚する注意力を鍛える優れた方法だろう。日常生活におけるかすかな心の動きやイメージ、身体からのシグナルもサティによって自覚されやすい。


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2 コメント

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夢見の修行 (さいたぽん)
2006-09-18 19:18:44
チベット仏教にも「夢見」を利用した修行法がありますね。これはもちろん”楽しい夢を見るため”行うわけではなく、私たちが日々経験している「日常世界」も、心の剥き出しの本質を経験しているというわけではなく、その生命体特有の概念世界を生きているという意味で、「夢の世界」となんら変わることがない、ということを悟るために行われるのですね。ミミズはミミズの夢を生き、人間は人間の夢を生き、阿修羅は阿修羅の夢を生きているわけですね。
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「夢見」の意味 (Noboru)
2006-09-18 21:32:57
さいたぽんさん、ありがとうございました。

なるほど、「夢見」をそんな風に捉えることもできますね。「日常世界」と「夢の世界」を、それぞれの生命や個人に特有の「構築された世界」という意味では、同じだととらえる。



ミンデルは、夢も身体症状も、タオからの働きかけととらえるわけですが、夢はそのような多様なアプローチを可能にする不思議な世界ですね。
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