◆「思考と瞑想の心理学」シリーズは、別ブログで書き溜めてあった分は、これでほぼ終わりである。今後は、何か文献を読んで刺激されたり、瞑想の中で新しい気づきがあったらそのつど付け加えていくということになる。
ともあれこの時期にこのシリーズを、整理しながらアップし直したことは自分の中で意味が大きい。実際の瞑想や日常のサティの最中に、これまで以上に自分の日常的な思考と向き合っていたからである。
◆たしかに最近、瞑想や日常の中で湧き上がっては消える想念への気づきが深まっている。その時々によって気づきが深いときも浅いときもあるが、全体としてはやはり、これまでの埋没状態から抜け出しつつある。
やはり思考と戦っているという感じがなくなってきたのが大きいかも知れない。その理由は、心随観を意識的に積極的に行なっているからだ。何よりもまず、瞑想を始めたらすぐにその時の心の状態や瞑想に対するその時の気持などにサティしておく。たとえば「めんどうくさい」とか、「期待」とか。また何かしら思考が続いたら、たんに「思考」とラベリングして集中の中心対象(腹の動きなど)に戻るのではなく、思考に伴う感情や、その思考の性格などにサティを向ける。
瞑想中にある人物のことが思い浮かんだとする。彼にまつわる記憶がよみがえる。しかし実際には、自分でもほとんど気づかぬうちに、彼についての他の記憶や、好ましい感情や、逆に不快な感情や、嫉妬や、反発など、様々な心の反応がさざなみのように続いている。
道で知り合いの人物と出会い、軽く挨拶をして別れた場合も同じである。彼に関係するいくつかの思考や感情が続くかも知れない。しかし、日常の心の反応にサティを心がけていると、一瞬の出会いに伴って、様々な記憶や思考や反応の感情がさざなみのように広がるのがわかる。実際は、それらの中のいくつかにラベリングをするだけだが、それ以外のさざなみのような反応にも気づくようになる。
日曜日は毎週、父を隣の駅近くの教会まで送る。行きは車椅子を押しながら、帰りは早足に歩きながら。調子がよければ思考の連鎖に陥ってしまうことは、ほとんどない。思考が少ない分だけ、歩きながらの身体の微妙な感覚の変化だとか、一瞬のかすかな心の動きだとかに気づき(サティ)が入りやすくなっている。
思考やそれに伴う感情の動きに心随観していると、自我の一瞬一瞬の働きにとても敏感になっていく。と同時に、全体としての自我のとらわれの傾向にも気づきが深まっていく。
ともあれこの時期にこのシリーズを、整理しながらアップし直したことは自分の中で意味が大きい。実際の瞑想や日常のサティの最中に、これまで以上に自分の日常的な思考と向き合っていたからである。
◆たしかに最近、瞑想や日常の中で湧き上がっては消える想念への気づきが深まっている。その時々によって気づきが深いときも浅いときもあるが、全体としてはやはり、これまでの埋没状態から抜け出しつつある。
やはり思考と戦っているという感じがなくなってきたのが大きいかも知れない。その理由は、心随観を意識的に積極的に行なっているからだ。何よりもまず、瞑想を始めたらすぐにその時の心の状態や瞑想に対するその時の気持などにサティしておく。たとえば「めんどうくさい」とか、「期待」とか。また何かしら思考が続いたら、たんに「思考」とラベリングして集中の中心対象(腹の動きなど)に戻るのではなく、思考に伴う感情や、その思考の性格などにサティを向ける。
瞑想中にある人物のことが思い浮かんだとする。彼にまつわる記憶がよみがえる。しかし実際には、自分でもほとんど気づかぬうちに、彼についての他の記憶や、好ましい感情や、逆に不快な感情や、嫉妬や、反発など、様々な心の反応がさざなみのように続いている。
道で知り合いの人物と出会い、軽く挨拶をして別れた場合も同じである。彼に関係するいくつかの思考や感情が続くかも知れない。しかし、日常の心の反応にサティを心がけていると、一瞬の出会いに伴って、様々な記憶や思考や反応の感情がさざなみのように広がるのがわかる。実際は、それらの中のいくつかにラベリングをするだけだが、それ以外のさざなみのような反応にも気づくようになる。
日曜日は毎週、父を隣の駅近くの教会まで送る。行きは車椅子を押しながら、帰りは早足に歩きながら。調子がよければ思考の連鎖に陥ってしまうことは、ほとんどない。思考が少ない分だけ、歩きながらの身体の微妙な感覚の変化だとか、一瞬のかすかな心の動きだとかに気づき(サティ)が入りやすくなっている。
思考やそれに伴う感情の動きに心随観していると、自我の一瞬一瞬の働きにとても敏感になっていく。と同時に、全体としての自我のとらわれの傾向にも気づきが深まっていく。
散歩の途中に 聞こえる 鳥の鳴き声 虫の鳴き声‥ 風の心地よさ‥ カラダを抜ける あの感覚‥ 頭が冷たくスッキリする感覚‥
>しかし自分の感情を素直に 直視出来るようになって 感情が消えるのが 格段に早くなりました。 初めは 認めるのは怖がったし 恥ずかしい事とすら思っていました。
そうですよね。自分の感情を素直に直視できるようになればなるほど、毎日新しい気づき、発見が生まれ、自分の中で何かが変化していくような感覚がやってきます。
そんな変化に向けて、日常の思考や感情に少しでも気づきをもたらしていきたいですね。新しい発見にわくわくしながら。
「成果」を感じるときほど、無限後退しつつサティをしていかざる終えないところが、ヴィパッサナー瞑想のよいところだと思っています。
サティを忘れているとき、いかに一瞬一瞬の今を生きていないかを感じます。「一瞬一瞬を大切に」、サティを心がけたいです。