ガンガジ著『ポケットの中のダイヤモンド』(徳間書店)を読んだことは、私に何らかの自信を与えたようだ。
一つはサティの意味を改めて確認できたことだ。強い目的志向によってサティを始めたにしても、サティそのものが、そうした意識のあり方さえも自覚化させていく力を持っている。常に今ここで起っている心の現象に気づいていくのがサティだからだ。
このようにサティを捉え返したことが、瞑想中のサティ、生活の中のサティにも影響を与えている。以前は気づかなかった、あるいは半分気づいていても無視していた今の心のあり方に敏感になっている。「無限後退」の態度がより徹底したとでも言おうか。
自信を得たもう一つの理由は、まだうまく言語化できない。この本を読んで全体から感じとったものだ。引用し、コメントするという形式で何日かかけてそれを言語化していくことになるだろう。
「意識の中で生まれるどんな感情も、意識によって完全に対峙することができます。物語や分析に身を隠す必要はありません。ただじっとして湧きあがる感情のすべてを完全に経験するという意思があなたにあれば、あなたはそうした感情は存在しないことがわかるはずです。感情とはただ思考によってのみつなぎ合わされています。その思考が意識的でも無意識でもです。」
恐れ、怒り、悲しみ、絶望に対して「あなたが本気で『いらっしゃい』と言い、そしてあなたの心が本当に開かれていたならば、感情は湧き上がることはできません。なぜならその瞬間、あなたはそれについて何の物語も語ってはいないからです。‥‥恐れ、怒り、悲しみ、絶望は、物語とつながっていなければ存在できないのです!」p182
ここで言う物語とは、自分の人生の様々な出来事や自分の人生そのものに与える様々な解釈とでも理解しておけばよい。私たちは、思考によって様々な物語を作りながら人生を生きている。物語には、自己満足、夢、いいわけ、自己防衛など、様々な働きがある。いずれも事実を直視するのを避け、自分にとって都合よく解釈するための手段だろう。
思考し、物語を織り成すことで、私たちは同時に恐れ、怒り、悲しみ、絶望を作り出している。思考や物語なしに、ありのままの感情に対峙する。これがまさにサティなのだ。ただじっとして湧き上がってくる感情に完全に対峙する(サティする)なら、感情は存在しないことに気づくという。
一つはサティの意味を改めて確認できたことだ。強い目的志向によってサティを始めたにしても、サティそのものが、そうした意識のあり方さえも自覚化させていく力を持っている。常に今ここで起っている心の現象に気づいていくのがサティだからだ。
このようにサティを捉え返したことが、瞑想中のサティ、生活の中のサティにも影響を与えている。以前は気づかなかった、あるいは半分気づいていても無視していた今の心のあり方に敏感になっている。「無限後退」の態度がより徹底したとでも言おうか。
自信を得たもう一つの理由は、まだうまく言語化できない。この本を読んで全体から感じとったものだ。引用し、コメントするという形式で何日かかけてそれを言語化していくことになるだろう。
「意識の中で生まれるどんな感情も、意識によって完全に対峙することができます。物語や分析に身を隠す必要はありません。ただじっとして湧きあがる感情のすべてを完全に経験するという意思があなたにあれば、あなたはそうした感情は存在しないことがわかるはずです。感情とはただ思考によってのみつなぎ合わされています。その思考が意識的でも無意識でもです。」
恐れ、怒り、悲しみ、絶望に対して「あなたが本気で『いらっしゃい』と言い、そしてあなたの心が本当に開かれていたならば、感情は湧き上がることはできません。なぜならその瞬間、あなたはそれについて何の物語も語ってはいないからです。‥‥恐れ、怒り、悲しみ、絶望は、物語とつながっていなければ存在できないのです!」p182
ここで言う物語とは、自分の人生の様々な出来事や自分の人生そのものに与える様々な解釈とでも理解しておけばよい。私たちは、思考によって様々な物語を作りながら人生を生きている。物語には、自己満足、夢、いいわけ、自己防衛など、様々な働きがある。いずれも事実を直視するのを避け、自分にとって都合よく解釈するための手段だろう。
思考し、物語を織り成すことで、私たちは同時に恐れ、怒り、悲しみ、絶望を作り出している。思考や物語なしに、ありのままの感情に対峙する。これがまさにサティなのだ。ただじっとして湧き上がってくる感情に完全に対峙する(サティする)なら、感情は存在しないことに気づくという。