自分のYouTubeチャンネルで久しぶりに臨死体験に関する動画を投稿した。次のタイトルから動画に飛ぶことができる。
★『誰もが「あの世」につながっている?臨死なき「臨死体験」の重要なメッセージ』
臨死なき「臨死体験」の意味については動画の中で説明している。臨死なき「臨死体験」の一例として、動画の中では『神との対話』の著者、ニール・ドナルド・ウォルシュの場合を挙げた。彼の『神との対話』はベストセラーとなり、37国で翻訳され、以後シリーズ化された。しかし1995年にこの本が出版される以前、彼はいくつかの職業を経験し、ホームレスにまでなるなど、その人生はけっして楽なものではなかった。無名の時代の彼は、ある日、妻との口論の後、自分の人生し、その時、衝撃的ないわゆる「臨死体験」をしている。その内容は、動画で御覧いただきたい。ここで紹介しておきたいのは、いわゆる臨死なき「臨死体験」をどう解釈するかである。以下、動画の後半部分を引用する。
《以下、動画の後半部分より》
このように、肉体的な死とは直接に結びつかない状態での「臨死体験」の報告は無視できないほどに多いのです。臨死体験が何かしら死後の世界をかいま見た体験だとする立場からすると、臨死なき「臨死体験」の存在は、大変やっかいな問題です。臨床的に死んだと判定された人やそれにかぎりなく近い状態だった人が臨死体験をしてこそ、臨死体験が死後の世界をかいま見た体験だと主張できるというわけです。
それなのに、まったく死の危険性がなかった人までが「臨死体験」をするとなると、死んでもいず、まして臨死状態でもないのになぜ死後の世界をかいま見ることができるのかということになり、「臨死体験」=「生きている脳が作り出す幻覚」だとする主張に好材料を与えることになります。確かに生の世界と死後の世界を時間的な連続の中でとらえ、肉体の死の後に初めて死後の世界が始まると考えるなら、死に瀕していない状態での「臨死体験」は何とも不可解で、ナンセンスですらあるでしょう。
しかしこの問題は、発想を少し転換するだけで、まったく別の視点から考えることもできます。「臨死体験」という現象を世界に知らしめたムーディーは、あるインタヴューに答えて次のようにいいます。
「死後の世界を意味する英語の表現にはいろいろあります。“the life after death” “the life hereafter” “the other side” “the beyond”どの表現を取っても、時間的、あるいは空間的にこの世とは隔絶した向こうの世界であることを意味しています。私はどうもそこのところが、根本的にちがっているのではないかと思うのです。この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなく、実はつながっているのではないか。いやもっといえば、同じ世界なのではないか。同じ世界なのに、見え方がちがっているのではないかと思うのです。……我々はこの世における認識が全てだという気がしていますが、そうではない。我々はこの世では、実はほとんど何も見ていないに等しい。死によって、人間の認識能力はとてつもなく拡大し、これまで見えなかったいろんなものが見えてくる。」
もう少し別の言い方をすれば、私たちはこの肉体をもって空間と時間に制約された物質的次元に生きていますが、しかし誰もがこの肉体的、物質的な制約を超えた別の次元に開かれているのかも知れません。あるいはふだんは気付かないだけで常につながっているのかも知れません。だからこそ私たちは時に、予感や虫の知らせという形でその次元から何らかのメッセージを受け取ったり、あるいは遠くにいて死に瀕している身内から夢を通してメッセージを受け取ったりという現象がおこったりするのかもしれません。そして肉体的に死に直面していなくとも「臨死体験」をする人々は、何らかの理由で肉体的、物質的な制約から一時的に自由になり、この世とつねに一体となっていて、しかも次元が違う世界に触れる体験をもった人々なのかも知れません。(引用は以上)
この動画、あまり再生数は多くないのだが、実はこの動画を投稿したことが、最近の私にとってかなり重要な意味をもっていると感じている。つい一週間前からの私の病気や、その後の読書による気付きと、深く関係しているような気がしているのだ。私は今、アーノルド・ミンデルの『身体症状に〈宇宙の声〉を聴く』に夢中になっているのだが、病気をしたことやこの臨死体験の動画を投稿した一連のことが、なにか偶然のこととは思えないのだ。それについては、稿を改めて詳しく書きたいと思う。