瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

静けさを伴う観察

2010年06月25日 | 瞑想日記
YuTube上の関野あやこの動画については、これまで2回取り上げたものについては印象が強かったが、他のものについては、ここにその言葉の一部を起こしてみるところまでは意欲が湧かなかった。すべて見ているわけではではないが、ことに講演風のビデオについては、それほど強い印象は受けなかった。むしろ少し鼻につくような感じがないでもない。それがどこから来るのかはよく分からない。私の中の何かの投影かも知れない。

ともあれ、私自身がいくつかのビデオから刺激を受け、結果として自分の中に新たな希望のようなものが生まれたのは確かだ。それは大切にしていきたい。これからもビデオを見たり、本やDVDを買って見たりはしたい。セミナーなどは高額なので参加する気はない。本はすでに一冊注文して手元に届いている。『バシャール&関野あやこ 次の地球へ』という本だ。また読んでいないが、読むとまた違った印象を受けるかもしれない。

彼女から刺激を受けたのはどんなところだろうか。まずは「自分につながる」ということ。統合という言葉で言い換えてもいい。私にとってそれは、自分の中にある真実の感情に敏感になり、そこに戻っていくということだ。具体的には、自分の日常的な思考(いわゆる雑念)やそれに伴う感情に少しでも深く気づいていくこと。結局それは、サティということなのだが、彼女のビデオを見たかとが刺激となったためか、自分の思考に気づき、観察していることがより多くなった気がする。というより、すでにあったそういう流れが少し加速したという感じだろうか。しかもとってつけたような観察ではなく、こころの静けさを伴う観察とでも言おうか。

もう一つは、物質的次元がイリュージョンだということ。これも彼女が何度も強調していることだ。分離の意識は、そのイリュージョンに執着するが、本当の自分につながればつながるほど(気づきが深まれば深まるほど)、それが幻のようなものでしかないことが分かってくる。

私は、そこのところを分かっているようで実は分かっていない。なぜならたっぷり執着しているから。物質的次元の一切が、変化消滅する以上、そこに執着することは意味がないのだが、相変わらず執着している。しかし、そういう自分を否定的に捉えることはない。むしろ執着している自分を楽しめばよい。そういう自分を素直に生きつつ、自覚を深めればよい。執着するということは、執着することが必要な次元にいるということだ。そういう自分を自覚的に生き抜いて、さらに深く自分につながっていけばいいのだ。

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