たとえば、思考についてその論理性を追求する方向から研究することもあるだろう。あるいは、思考と言語の関係を考察する研究もあるだろう。
しかし、日常生活の中で毎日、一瞬一瞬繰り広げられていく日常的思考を、それがどのような性質をもち、どのように展開する傾向があり、性格傾向や心理的な問題とどのように関係するか、無意識領域とはどのように関係するかなど、その全体的な性格を体系的に研究しようとする試みは、ほとんどなかったのではないか。
私は、ヴィパッサナー瞑想を少し行い、日常生活の中でも、自分の知覚や思考につねに気づきづつけるという「サティ」の訓練をしている。それで、ほとんど無自覚に(客観視や対象化されずに)無限に繰り返されていく思考に、自分が縛り付けられているという感じを持つことが多い。それゆえ思考を研究したいという私の主観的な動機は、「自己」「エゴ」を中心として巡り続け、それを強化してしまう思考からどのようにして解放されるか、ということである。
そういう動機を背後にもちながら、日常的な思考とはどのような思考なのか、客観的にその構造を明らかにしていきたいという欲求も強くなった。
その出発点は自己観察であろう。そして自己観察は、そのままヴィパッサナー瞑想の修行になる。しかし、自己観察した日常思考のプロセスや構造を、概念的に対象化し、構造として記述していくなら、それはひとつの学問となるだろう。
日常的な思考について、日常的な思考からの解放という視点を隠しもちながら、その視点から研究するとき、かなり全体的な視野が獲得されるような気がする。
しかし、日常生活の中で毎日、一瞬一瞬繰り広げられていく日常的思考を、それがどのような性質をもち、どのように展開する傾向があり、性格傾向や心理的な問題とどのように関係するか、無意識領域とはどのように関係するかなど、その全体的な性格を体系的に研究しようとする試みは、ほとんどなかったのではないか。
私は、ヴィパッサナー瞑想を少し行い、日常生活の中でも、自分の知覚や思考につねに気づきづつけるという「サティ」の訓練をしている。それで、ほとんど無自覚に(客観視や対象化されずに)無限に繰り返されていく思考に、自分が縛り付けられているという感じを持つことが多い。それゆえ思考を研究したいという私の主観的な動機は、「自己」「エゴ」を中心として巡り続け、それを強化してしまう思考からどのようにして解放されるか、ということである。
そういう動機を背後にもちながら、日常的な思考とはどのような思考なのか、客観的にその構造を明らかにしていきたいという欲求も強くなった。
その出発点は自己観察であろう。そして自己観察は、そのままヴィパッサナー瞑想の修行になる。しかし、自己観察した日常思考のプロセスや構造を、概念的に対象化し、構造として記述していくなら、それはひとつの学問となるだろう。
日常的な思考について、日常的な思考からの解放という視点を隠しもちながら、その視点から研究するとき、かなり全体的な視野が獲得されるような気がする。