瞑想と精神世界

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思考と瞑想の心理学06:「目的のある思考」「散漫な思考」

2010年07月03日 | 思考と瞑想の心理学
これから日常的な思考の様々な側面を考察していきたい。まずは、自己観察から日常的な思考を大雑把に分類してみよう。分類の仕方も視点によって様々であろうが、私がまず思いつくのは、「目的のある思考」と「散漫な思考」である。

例を挙げよう。駅を降りて職場に向かって歩いているとする。職場での今日の段取りを考える。「まずはあれを終わらせ、次にあの件を部下に説明して行わせる。そうだ、こっちの件はA氏に確認をしてから手を打たねば‥‥」 

これは「目的のある思考」である。日常のなかで誰しも公私にわたって様々な仕事、課題、目的をもっている。大小様々あるだろう。それらについて適切な手段、方法を検討したり、迷いつつ条件を考慮して選んだり、という「目的を実現するための思考」である。重要な仕事上の思考から、「今日は妻の帰りが遅い。夕飯はどうしようか」というような日常些事にまつわる思考もあるだろうが、いずれも目的や課題がはっきりしており、それを実現したり、解決したりするための思考である。この場合は、思考の主題は、程度の差はあれ明確に存在している。

ところで、職場に向いながら今日の段取りを考えていると、急にセミの声が耳に入ったとする。小さな公園を通り過ぎたのである。「ああ、セミがないている」と思い、そこからつい先日の同僚との会話を思い出す。仕事中、外で急にセミが鳴きだし同僚は、「おう、今年始めて聞くセミの声だ」と言ったのである。そこからその同僚との別の会話を思い出す。「そういえば彼は先日あんなことを言っていたが、あれは皮肉っぽい言い方だった、そういえばあいつはときどき皮肉な言い方をする」という風に、次々と連想が始まるのである。さらに別の友人が自分に向かっていった皮肉を思い出したりする。こんな風に連想は延々と続いていく。

これが「散漫な思考」の例である。「目的のある思考」と「散漫な思考」は、とりあえず自己観察からこのように分類してみた。もちろん他の分類の仕方もあろうが、目的のあるなしという視点から仮にこのような分類もできるだろうということである。

日常の中では、二つの思考の間の境界は曖昧な部分もあるだろう。しかし、一般的に言ってどちらの思考が多いだろうか。これは、今のところ私の主観でしか言えないのだが、圧倒的に「散漫な思考」の方が多いのではないだろうか。外部の刺激や連想によって次々と内容やテーマが変化し、取りとめのない思考である。これをいわゆる「雑念」と言ってもよい。

しかし、極端な言い方をすれば、その「雑念」の内容、質が、その人のパーソナリティを規定していると言ってもよい。いや、逆にパーソナリティがその個人の日常的思考の内容を規定していると言えるのかもしれない。複雑な相互作用があるとも言える。「散漫な思考」こそが、人間の「自己」、パーソナリティ、感情、無意識等々との関係において、きわめて重要な意味をもっているはずである。これらの関係を追求することは、厳密な研究のテーマとなるはずだが、今のところそのような本格的な研究はないように思える。
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