「目的のある思考」と違って「散漫な思考」の場合は、内外の様々な刺激からの連想によって思考の対象と内容は次々と変化していく。そこにはとくに「何々のために」という意図や目的はない。突然、われにかえって「今、どうしてこんなことを考えていたのだろう」と自問しても、答えられない場合も多い。つまり自分の思考について「無自覚」なのである。
「散漫な思考」は、一瞬一瞬移り変わっていくので、ほとんど記憶にすら残らない場合も多い。試して見れば分かると思うが、一瞬前に何を考えていたのかも覚えていない場合がある。それほど無自覚なのである。
「散漫な思考」は連想によっていくらでも展開し、拡散していく。何かの音をきっかけにして、それに関係する何らかの想念が浮かぶ、さらに、それに関係のある次の想念が浮かぶ、そして、それが延々と繰り広げられていく。
ところで、ある音(たとえば自転車がブレーキをかける音、救急車のサイレン‥‥)から、何を連想するかは、かなり大きな選択幅があり、人によって、場合によって様々である。そこに、無意識的な選択作用が働いている。
Aという外的刺激や自分の想念から、B、C、D‥‥のうちどの想念が連想されるかは、その人の心の中の無自覚な関心や執着に負っている場合が多い。だからこそ「連想」は、無意識を探求する大切な手がかりとなるのだ。精神分析でいう「自由連想法」は、もちろんこの考え方に基づいている。
ところでAという刺激や想念から、B、C、D‥‥のいづれかを連想した場合、直後に振り返れば、B、C、D‥‥のいづれであろうとAとの何らかの関連があって連想したのだと自覚できる場合もある。C、D‥‥はなくてBが選択された理由までは分からないにしても。
しかし、Aとの関連がまったく分からないような場合もある。たとえば急に3年前の旅行で見たある光景が浮かび上がったとする。しかしその直前の思考や外部刺激との関連がまったくつかめないような場合である。これは、無意識の世界では何かしら関連がありながら、本人にはまったく自覚ができないというケースである。日常的な思考を観察しているとこういう場合もかなりあると思うが、どうだろうか。
ともあれ私たちは、毎日、自分の中の無意識の力に突き動かされ、膨大な想念・思考を繰り返している。しかもそのほとんどが無自覚のうちに浮かんでは消えていく。そして、日常生活の大半を占めるこのような思考こそが、「私」という観念や、私のパーソナリティに深く関係している。だからこそ、私たちは、日常的な「散漫な思考」の特徴をもっと明確につかんでいく必要があるのだろう。
「散漫な思考」は、一瞬一瞬移り変わっていくので、ほとんど記憶にすら残らない場合も多い。試して見れば分かると思うが、一瞬前に何を考えていたのかも覚えていない場合がある。それほど無自覚なのである。
「散漫な思考」は連想によっていくらでも展開し、拡散していく。何かの音をきっかけにして、それに関係する何らかの想念が浮かぶ、さらに、それに関係のある次の想念が浮かぶ、そして、それが延々と繰り広げられていく。
ところで、ある音(たとえば自転車がブレーキをかける音、救急車のサイレン‥‥)から、何を連想するかは、かなり大きな選択幅があり、人によって、場合によって様々である。そこに、無意識的な選択作用が働いている。
Aという外的刺激や自分の想念から、B、C、D‥‥のうちどの想念が連想されるかは、その人の心の中の無自覚な関心や執着に負っている場合が多い。だからこそ「連想」は、無意識を探求する大切な手がかりとなるのだ。精神分析でいう「自由連想法」は、もちろんこの考え方に基づいている。
ところでAという刺激や想念から、B、C、D‥‥のいづれかを連想した場合、直後に振り返れば、B、C、D‥‥のいづれであろうとAとの何らかの関連があって連想したのだと自覚できる場合もある。C、D‥‥はなくてBが選択された理由までは分からないにしても。
しかし、Aとの関連がまったく分からないような場合もある。たとえば急に3年前の旅行で見たある光景が浮かび上がったとする。しかしその直前の思考や外部刺激との関連がまったくつかめないような場合である。これは、無意識の世界では何かしら関連がありながら、本人にはまったく自覚ができないというケースである。日常的な思考を観察しているとこういう場合もかなりあると思うが、どうだろうか。
ともあれ私たちは、毎日、自分の中の無意識の力に突き動かされ、膨大な想念・思考を繰り返している。しかもそのほとんどが無自覚のうちに浮かんでは消えていく。そして、日常生活の大半を占めるこのような思考こそが、「私」という観念や、私のパーソナリティに深く関係している。だからこそ、私たちは、日常的な「散漫な思考」の特徴をもっと明確につかんでいく必要があるのだろう。