◆下見
20数名の規模でヴィパッサナー瞑想合宿のできる場所を探している。その下見もかねて、法友二人と共に曹洞宗のあるお寺で座禅をしてきた。飯能から車で30分ほどの山間にある古い寺である。9日(土)の午後3時過ぎに着き、10日(日)の朝9時過ぎまで座禅を組んだり、精進料理を味わったり、作務をしたり、住職と話したりした。
住職の指導の元、曹洞宗のやり方(半眼、結跏趺坐ないし半跏不座)で二回(各40分)ほど座禅を組んだが、それ以外の自由な時間は、ひたすら座位でヴィパッサナー瞑想をしていた。夜は9時就寝だったが、もちろん夜座。朝も4時に起きて座った。
帰りがけに住職と話し合った結果、ヴィパッサナー瞑想の合宿のために場所をお借りするのは、やはり難しいと思われた。ヨーガの合宿を受け入れたりしていて、かなり柔軟ではあるのだが、お勤め(勤行)なして、ヴィパッサナー瞑想の独自のプログラムだけでお願いするのは虫のよすぎる話である。
◆想念の役割
座禅中は、想念・思考が多いこともあった。そんな時あらためて思うのは、瞑想においては想念には想念の役割があるということである。だいたい、腹の動きに集中しようとしているのに、その意志を裏切って想念が湧き出るということ自体、自分の表層の意志を超えた深層からの動きがあるということである。
だからこそ、想念が出てもそれを否定的に理解する必要はない。想念が執拗に続くということは、そうさせるだけの深層の動きがあるということだ。だったら、心随観に切り替えて想念が出てくる源を探ればよいのである。想念が湧き出るということは、深層を探るチャンスが与えられたということで、むしろ喜ぶべきことなのだ。
ヴィパッサナー瞑想のよいところは、集中できればもちろんよい、集中できず想念が湧出しても、それもまた気づきのチャンスとなる、という姿勢である。瞑想合宿に最初に参加した時、そう教えられてとても感動したのを覚えている。「初心忘るべからず」
20数名の規模でヴィパッサナー瞑想合宿のできる場所を探している。その下見もかねて、法友二人と共に曹洞宗のあるお寺で座禅をしてきた。飯能から車で30分ほどの山間にある古い寺である。9日(土)の午後3時過ぎに着き、10日(日)の朝9時過ぎまで座禅を組んだり、精進料理を味わったり、作務をしたり、住職と話したりした。
住職の指導の元、曹洞宗のやり方(半眼、結跏趺坐ないし半跏不座)で二回(各40分)ほど座禅を組んだが、それ以外の自由な時間は、ひたすら座位でヴィパッサナー瞑想をしていた。夜は9時就寝だったが、もちろん夜座。朝も4時に起きて座った。
帰りがけに住職と話し合った結果、ヴィパッサナー瞑想の合宿のために場所をお借りするのは、やはり難しいと思われた。ヨーガの合宿を受け入れたりしていて、かなり柔軟ではあるのだが、お勤め(勤行)なして、ヴィパッサナー瞑想の独自のプログラムだけでお願いするのは虫のよすぎる話である。
◆想念の役割
座禅中は、想念・思考が多いこともあった。そんな時あらためて思うのは、瞑想においては想念には想念の役割があるということである。だいたい、腹の動きに集中しようとしているのに、その意志を裏切って想念が湧き出るということ自体、自分の表層の意志を超えた深層からの動きがあるということである。
だからこそ、想念が出てもそれを否定的に理解する必要はない。想念が執拗に続くということは、そうさせるだけの深層の動きがあるということだ。だったら、心随観に切り替えて想念が出てくる源を探ればよいのである。想念が湧き出るということは、深層を探るチャンスが与えられたということで、むしろ喜ぶべきことなのだ。
ヴィパッサナー瞑想のよいところは、集中できればもちろんよい、集中できず想念が湧出しても、それもまた気づきのチャンスとなる、という姿勢である。瞑想合宿に最初に参加した時、そう教えられてとても感動したのを覚えている。「初心忘るべからず」