右足のつけ根部分の筋を痛めており、座禅ができないので、尻にクッションを敷いて正座して座禅をした。足などが痛いときは、この形でも充分可能だと感じた。
途中で「苦しみ」というサティを入れた。足が痛かったのではなく心理的なものだった。生じてくる思考を監視し続けることに、かすかな苦痛を感じたのだ。何かを考えようとする衝動がある。その衝動にまかせて考え始める。それを止めて「思考」とサティを入れる。
思考しようとする衝動とそれを監視してサティを入れようとする意志の間には一種の葛藤があり、それがかすかな「苦しみ」として意識されたのだ。そのかすかな感覚をやり過ごすのではなく「苦しみ」とサティする。すると、小さな葛藤とそれに伴う苦痛は、不思議に消えていった。思考を監視するような感覚も消えた。
一瞬、意識をかすめる思いや感情にサティすることが、意外と大切だと思った。
途中で「苦しみ」というサティを入れた。足が痛かったのではなく心理的なものだった。生じてくる思考を監視し続けることに、かすかな苦痛を感じたのだ。何かを考えようとする衝動がある。その衝動にまかせて考え始める。それを止めて「思考」とサティを入れる。
思考しようとする衝動とそれを監視してサティを入れようとする意志の間には一種の葛藤があり、それがかすかな「苦しみ」として意識されたのだ。そのかすかな感覚をやり過ごすのではなく「苦しみ」とサティする。すると、小さな葛藤とそれに伴う苦痛は、不思議に消えていった。思考を監視するような感覚も消えた。
一瞬、意識をかすめる思いや感情にサティすることが、意外と大切だと思った。