瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

サティへの自覚

2006年10月24日 | 瞑想日記
昨日の朝のような、日常の営みの中でほとんど努力感なしにサティが続いていく体験は始めてだったが、今日はもうその感じはなかった。今朝、昨日のようにサティを連続させようと思ったが、やはりうっかりすると途切れてしまった。

しかし、あの体験がひとつのモデルになったようだ。日常生活の中でサティがクリアに持続した体験が刺激となり、意識的にサティを持続させようとする時間が多くなった。今朝もさっそく電車の中で本を読むのを止めてサティを続けた。本は、エックハルト・トールの『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』(Stillness Speaks)だったが、これは帰りの電車の中で読んだ。この本については項を改めて書く。

それにしても、なぜ急にサティを続けようとする意志が夢の中まで続いていったのだろうか。

ひとつ考えられることは、サティへの自覚が深まっていたということだ。最近、浮かんでは消える想念を、「自我」にとってどんな意味やうまみがあるのかという観点からラベリングすることが多くなった。それがかなり習慣化していた。「なるほど、今浮かんだ想念は、このように自我を強化し、劣等感を補償する意味があったんだな」と、逐一確認した。今まで見過ごしていたような想念や思考の意味を確認することが何度もあった。それは、想念・思考を相対化する視点を強めた。それに応じて、サティへの自覚も深まっていたのだ。

さらに、サティをすることで、思考だけでなく「思考する自我」を相対化する視点も深まっていたようだ。「思考する自我」は結局、この世と言う舞台上で「自我」の強化と保身に汲々としている。そういう自我の相対化するサティの働きへの自覚が深まっていたのだ。
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夢の中でサティ

2006年10月23日 | 瞑想日記
いつも寝床に入ってから少しは、腹の動きや様々な身体感覚や浮かんでは消える想念にサティを入れる。そのうちサティも曖昧になって寝入る。少し寝つきが悪く、サティもうやむやになって妄念を重ねることもある。

昨晩も寝つきが悪かったが、サティは続いていたような気がする。そのうちウトウトし始めたが眠りが浅かったようだ。それでもずっとサティが続いていたような印象だ。いや、そういう気がしていただけかも知れないが、少なくともサティをしようとする意志は持続していた。

ウトウトした状態でありながら、「完璧にサティが入り続けているなあ」と思った。「なんだ、できるじゃないか」と。これも寝ぼけて、そう「妄想」していただけかもしれないが。

いくつか夢を見た。浅い眠りの中の夢のようだった。そこでもサティが入り続けている感じがあった。少なくとも、「今、夢を見ている」という意識はあり、それにサティをするんだという意志は持続していた。夢の内容は朝の通勤電車の中では覚えていたが、今は忘れた。

驚いたことに朝、起きたときもサティが続いていた。起床してからの一連の動作のことごとくにすばやくラベリングが入っていく。階段を降りる足の歩み。トイレの電気のスイッチを入れる動作。トイレ内での放尿の音、ふとんをたたむ動作、ことごとくにサティが入っている。時折の想念にもクリアにサティが入っている。途中、「今日は燃えるゴミを出す日だろう云々」という妻とのやりとりにはサティが入らなかったが、ゴミ袋を出す手足の動きにもサティが入る。通勤電車に乗ったころから徐々にサティの持続度は落ちていって、職場についてからはいつもと変わらぬ状態に戻った。

地橋先生がよくいう「サティの自動化」という感じまではしなかったが、睡眠中のサティの持続感が、起床してもしばらくは続いていたような不思議な感覚であった。いとも簡単にサティが持続していく感覚が不思議であった。

☆サティ:気づき。現在の瞬間をとらえる心。
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動機と慢の自覚化

2006年10月22日 | 瞑想日記
起床後、ゆる体操、自発動気功、そして瞑想。ひさしぶりの瞑想となる。瞑想は40分ぐらいか。半ばごろから、手のひら、丹田、額の気が響き合って気の場が整ってくる感じ。しばらく瞑想をしていなかったのでこの感じがくるのが遅かった。ようやく後半になって脳が静まっていく感じになった。

浮かんでくる「想念」の出どころをじっくりサティする感じが、時間が経過するごとに深まった。この感じはこれまであまりないものだった。

家で行う瞑想においても瞑想合宿での瞑想においても、そこには根深く、しかも微妙な形で自我の動機や狙いが横たわっている。何か行為をなそうとする以上は、そこにかならず動機や狙いがある。瞑想においては、自我の狙いは巧妙に隠されたり、微妙で複雑なからみを伴って心の底に渦巻いている。

私はこれまで瞑想合宿においてさえ、巧妙複雑な自我の狙いに気づき、自覚化することについてかなり甘かったのではないか。今日はとくにそんな感じがした。

もちろん自我の盲点になってしまい、夢やイメージ体験を通したりした意識の転換がないと気づきにくい場合も多い。しかし今日感じたのは、自我の動機や狙いを自覚化しようとする意識をしっかりもっていれば、かすかな「想念」からでもそれが意外と気づかれやすいということだった。

たとえば瞑想中に腹の動きへの集中がよくなり、かすかな想念にもサティが入りやすくなる。するとそこに明確な言葉にならないようなかすかな「慢」が生じている。意識的にそういう心の動きを捉えようとしていないと見過ごしてしまう。それを適確にサティしていくのだ。それが出来るとそこにまた別の「慢」が生じる。それも自覚化する。無限後退。

このように自我の動機や狙い、それに伴う優越意識や劣等意識をことごとく自覚化していくと、心は自然に静まっていくような気がした。
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「想念」

2006年10月20日 | 瞑想日記
日常の中で浮かんでは消える思いやイメージをどのような言葉で表現すべきなのか、いつも迷う。いちばんよく使っているのは「思考」かもしれない。しかし、この言葉には筋道たてて意識的に考えるという意味合いがあるので、あまり適切ではない。

「妄想」という言葉もあるが、「まったくの想像を、自分で考えだして事実だと信じこんでしまうこと」という病的な意味と、そこから派生する否定的な意味あいが強いので使いたくない。

「雑念」は、意味あいとしてはいちばん近いかも知れないが、「集中」を乱すものとして少しは否定的な響きがあるし、手垢にまみれている感じで抵抗がある。

「想念」がいちばん中立的で適切なのかもしれない。

ともあれ、適切な日常語がないということは、日々意識に浮かんでは消える「想念」を何かしら重要なものとして捉えたり、そのあり方を学問的に研究するという発想が、従来はなかったということだろう。

しかし私には、日ごとにますます「想念」が重要な意味をもってくる。ひとつには、その連綿と続く「想念」こそが私の「自我」を形づくる主要ファクターであり、私が抱く「想念」の集積が、私という人間の何たるかを物語っている、私の愚かさを形づくっていると思うからだ。

もうひとつは、自分の「想念」やイメージや感情を対象化する視点に立つたごとに、日常的な生活意識を超えて、「限りあるいのち」の視点に連れ戻されるような気がするからだ。「限りあるいのち」の視点からすると、結局、日々の「想念」は、日常的な生活意識に埋没し、そこを超ええない「無明」の営みであることが分かるからだ。
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真実と表現(「島唄」)

2006年10月18日 | 瞑想日記
15日の夕方、たまたま見ていたテレビの画面で宮沢和史がインタビューに答えていた。あとから調べたところ『音楽の遺伝子[再]』 (NHK総合)という番組だったようだ。

リゾート気分で沖縄にいったが、「ひめゆりの塔」や「ひめゆり平和祈念資料館」で、沖縄戦での沖縄の人々の体験した苦しみ、悲しみを追体験したという。その苦しみや悲しみと、自分がこれまでの人生で味わった苦しみ、悲しみは比較できないけれど、その比較できない苦しみに共感するのは、やはり自分のささやかな苦しみ、悲しみによるほかない。その体験から、『島唄』などが生まれていったという。

正確に彼が語っていた言葉を覚えていないが、彼の言葉に深い「真実」を感じた。曲と詩によって自分のなかの「真実」を「表現」しようとする、彼のあり方に何かしら共鳴するものがあった。「島唄」は、何度か聴いた記憶がある程度だったが、あらためて響いてくるものがあった。

私の中のここ数日のテーマに「表現」ということがあるように思う。今朝方見た夢もそれに関連していたと思う。

夢の中で私は十数人の聴衆に混じって、ある人の講演を聴いていた。その人が誰かは分からなかった。何か感じるものがあった。講演が終わったとき、講演者は私のところへ来て、「あなたは私が伝えたいことが分かったろう、どのように分かったか話してほしい」と依頼された。私は一瞬とまどった。
何が語られたのかさっぱり分からなかった、あるいは思い出せなかった。何も語ることがなくこまったが、一つ感じたことがあった。講演者には飾り気がどこにも感じられなかったことだった。そこに共感していた。しかも深く真実を語っていることが感じられた。そこにも共感していた。それだけ確認し、語れば十分なような気がした。そんな夢だった。

最近、私はこの日記を書き続けることの意味を自覚的にとらえるようになってきている。それは、私の心の中に起っている「真実」を「表現」することだった。「真実」と「表現」とは密接に結びついている。「真実」があって、それが「表現」されるのではなく、「表現」によって「真実」が形をなしていくような感じがある。日記を書き続けることの意味は、「表現」によって自分自身の「真実」を明らかにしていくこと自体にあるように思える。
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