ここ数日は、意識が少し濁っている感じがし、瞑想もあまりうまく行っていない。意識が濁っているというのは、思考にどっぷりとつかっており、思考への気づき、思考の相対化が少ないということだ。それに対応してか、食べる量も多くなっている。食べたくなったときにサティが入っていないということだ。
そんな感じのとき、あえてここに書き込みをすることが必要なようだ。何も書くことがないと思っても、何かしら探して書こうとすると自分を客観視せざるを得ないので、それが気づきにつながっていくようだ。以前から、このブログに瞑想生活に関連した何かしらを書くことで心がスッキリするような、大げさに言えば浄化されるような感じがあった。それはまさしく、広い意味で書くことが「サティ」になっていたからだろう。
ここに自分にとって印象に残った言葉を掲載するのも、濁った心を何がしか浄化してくれる。
「エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何ものでもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想は決してあなたを満足させてくれない。‥‥なぜ不安なのか? エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどかかで承知している。」(『ニューアース』P92)
私の意識の根底にも不安がある。それは、一見日常の気がかりに原因するように思われるが、実はエゴが自らの存在根拠をもっていないことによるのだ。人は死ぬということ、すべては移ろい行くとくこと。最近私は、移ろいゆくものはすべて「幻想」だという感覚が強くなった。それでいて、その「幻想」にしがみついているのだが。一方で、「幻想」が瞬くまに消えていくことも「どこかで」分かっている。
そんな感じのとき、あえてここに書き込みをすることが必要なようだ。何も書くことがないと思っても、何かしら探して書こうとすると自分を客観視せざるを得ないので、それが気づきにつながっていくようだ。以前から、このブログに瞑想生活に関連した何かしらを書くことで心がスッキリするような、大げさに言えば浄化されるような感じがあった。それはまさしく、広い意味で書くことが「サティ」になっていたからだろう。
ここに自分にとって印象に残った言葉を掲載するのも、濁った心を何がしか浄化してくれる。
「エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何ものでもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想は決してあなたを満足させてくれない。‥‥なぜ不安なのか? エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどかかで承知している。」(『ニューアース』P92)
私の意識の根底にも不安がある。それは、一見日常の気がかりに原因するように思われるが、実はエゴが自らの存在根拠をもっていないことによるのだ。人は死ぬということ、すべては移ろい行くとくこと。最近私は、移ろいゆくものはすべて「幻想」だという感覚が強くなった。それでいて、その「幻想」にしがみついているのだが。一方で、「幻想」が瞬くまに消えていくことも「どこかで」分かっている。