瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

幻想

2008年11月24日 | 瞑想日記
ここ数日は、意識が少し濁っている感じがし、瞑想もあまりうまく行っていない。意識が濁っているというのは、思考にどっぷりとつかっており、思考への気づき、思考の相対化が少ないということだ。それに対応してか、食べる量も多くなっている。食べたくなったときにサティが入っていないということだ。

そんな感じのとき、あえてここに書き込みをすることが必要なようだ。何も書くことがないと思っても、何かしら探して書こうとすると自分を客観視せざるを得ないので、それが気づきにつながっていくようだ。以前から、このブログに瞑想生活に関連した何かしらを書くことで心がスッキリするような、大げさに言えば浄化されるような感じがあった。それはまさしく、広い意味で書くことが「サティ」になっていたからだろう。

ここに自分にとって印象に残った言葉を掲載するのも、濁った心を何がしか浄化してくれる。

「エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である。自分が何ものでもないという不安、存在しなくなるという不安、死の不安だ。結局エゴの行動はすべて、この不安を解消するためなのだが、エゴにはせいぜい親密な人間関係や新しい所有物やあれこれの勝利によって一時的にこの不安を紛らすことしかできない。幻想は決してあなたを満足させてくれない。‥‥なぜ不安なのか? エゴは形との同一化によって生じるが、実はどんな形も永遠ではなく、すべて移ろいゆくことをどかかで承知している。」(『ニューアース』P92)

私の意識の根底にも不安がある。それは、一見日常の気がかりに原因するように思われるが、実はエゴが自らの存在根拠をもっていないことによるのだ。人は死ぬということ、すべては移ろい行くとくこと。最近私は、移ろいゆくものはすべて「幻想」だという感覚が強くなった。それでいて、その「幻想」にしがみついているのだが。一方で、「幻想」が瞬くまに消えていくことも「どこかで」分かっている。
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その瞬間のサティは?

2008年11月20日 | 瞑想日記
昨日、教室でのあるやり取りの中で思わず「ふざけるなよ」と声を荒げた。とっさに怒りをあらわにした自分に、後から少し傷ついた。最近、一瞬一瞬の感情の動きに気づくことが多くなったと書いたが、実際には、肝心なときにサティが入っていない。その事実に気づいた。

怒りなら怒りの、強い感情が発動した瞬間にその事実に気づいているか。いや、ほとんど気づいていない。しかし、そう確認できたという事実が明日からのサティに何らかの影響を与えていくだろう。

「エゴの隠れた動機はつねに同じだ。目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、もっともっと欲しい、ということでる。」(エックハルト・トール) 当たり前のことのようだが、自分の心の動きのなかで毎日、確認していることをあらためて文字で読むと、「やはりそうだよな」という納得と、「自分だけではないよな」という一種の安心感が同時に湧く。

そして「やはりそうだよな」という確認は、これもまた、明日からの、いや今日からのサティに影響を与えていくだろう。より頻繁にエゴの隠れた動機に気づくようになるだろう。エゴを悪と決めつけるのではなく、ただそういう真実の姿を観察するという意味で。

今日は、それほど書きたいことがないなと迷っても、こんな風にたとえわずかでも書くことが、瞑想的な意識を深めるているようだ。
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無限後退

2008年11月17日 | 瞑想日記
瞑想をやったらやったで、エゴの思考は、たえずそれを「自分の瞑想」、「自分の修行」として、出来不出来を一瞬一瞬うれしがったり、がっかりしたりしている。

瞑想が少しうまくいったと感じると、「オッ、うまく行っているぞ、いいな」と思う。これもまた、エゴの自己満足であり、エゴを肥やす糧だ。そう思った瞬間に「思考」、「エゴの満足」とサティを入れる。それらの心の動きを、無限後退しながらサティしていく。

「『私はいつかエゴから解放されるだろう』。そう言っているのは何者か? エゴだ。エゴからの解放は決して大それた偉業ではなく、ちょっとした仕事にすぎない。必要なのは自分の思考と感情に――それが起ったときに――気づくこと。これはしっかりと『観察する』ことで『行動』ではない。」(『ニュー・アース』P131)

「成長したい、覚醒したい」と思うのは、エゴの思考によるのだから、修行や瞑想の結果に、そのつどエゴの思考が伴うのは当然といえば当然。大切なのは、当然の思考と感情を「無限後退」しつつキャッチしていくことだ。

あきらめずに続けていると、思考から気づきへの変化は、確実に起るのだと思えるようになった。
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エゴは悪ではない、ただの無意識だ

2008年11月16日 | 瞑想日記
引き続きエックハルト・トールの新著『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』から。こうして抜書きし、自分の気づきを確認することが、以前にもまして大切な作業になっている。

「誇りや目立ちたいという思いや、『もっと多く』によって自己意識が強化され、『より少なく』によって自分が小さくなると感じるのは、善でも悪でもない。エゴだというだけである。エゴは悪ではない。ただの無意識だ。自分のなかのエゴを観察するとき、エゴの克服が始まる。エゴをあまり深刻に受け取らないほうがいい。自分のなかにエゴの行動を発見したら、微笑もう。」(P51)

「気づき」(サティ)こそが大切なのだということ。これは何度でも確認しよう。私のなかにどうしてもエゴを悪として見てしまう傾向がある。そうではなく、ただ観察すること。そして観察、気づきを少しでも多くすること。たとえばだらだらとインターネット・サーフィンをしているときでも、自分の興味や関心の動きを観察することはできる。こうしてキーボードを打っているときも、心の動きを観察することはできる。善悪を決め付けるのではなく、ただ観察の時間を多くすること。

「モノに対する執着を手放すにはどうすればいいのか? そんなことは試みないほうがいい。モノに自分を見出そうとしなければ、モノへの執着は自然に消える。それまでは、自分はモノに執着していると気づくだけでいい。」(P55)

モノへの執着もエゴへの執着も同じ。手放そうとする必要はない。やはり気づきが大切なのだ。執着している自分に気づいていること。執着を「悪いこと」と思って、無理に手放そうとする必要はない。これも、私がよく陥りがちな傾向かもしれない。

ともあれ、気づきとかサティとか言いながら、日常生活のなかでいかに気づきが少なかったかを強く感じる今日この頃である。
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自覚

2008年11月15日 | 瞑想日記
私の瞑想的な生活の中で、少し意識に変化があったとすれば、それは苦しみの存在だけではなく、エックハルト・トールの新著『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』を読んでいることにもよるかもしれない。

使われる言葉は、「幻の自己」「エゴ」「いまに在る」「大いなる存在」「ペインボディ」など、前著『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』と大きく変らない。しかし、より丁寧に、これでもか、これでもかという風に「エゴ」の実態を暴いてくれる。

読みながら印象に残った言葉をいくつか拾って見る。

「変化は、人々の心や思考よりも深いところで起っている。それどころか新しい意識の核心は思考の枠を超えることにある。思考よりも高い場所に上がり、思考よりもはるかに広い次元が自分自身のなかにあることに気づく新たな能力だ。そのとき人は自分のアイデンティティを、自分が何ものであるかの根拠を、いままでの自分自身と同一視していた絶え間ない思考の流れには求めなくなる。」(P29)

絶え間ない思考の流れ、「自分の頭のなかの声」にどれだけ気づいているか。気づいている時間が長くなるほど、「思考する自分」は相対化される。「思考と同一化されている自我」を突き放して見ることができるようになる。だからこそ、一瞬一瞬が気づきのチャンスとなる。

思考したり、それに伴って感情が湧き起こったりする自分を見る。「このことを思い出して確認することで自我はこのように満たされて、喜んでいるんだな」、「こう感じているのは、自我がこのようにプライドを傷つけられているんだな」と自覚する。毎日のなかで、そういう自覚の時間が多くなればなるほど、自我の相対化は進むのだろう。
コメント (2)
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