瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

帰る家もなく

2009年06月18日 | 夢日記
◆エックハルト・トール『A New Earth』(訳書は『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』)より

Stillness Speaksの中の文を取り上げて感じたことを書くのは、とりあえず終了。今日からは
A New Earthを読んでのコメントをしばらく続けたい。

What a liberation to realize that the “voice in my head” is not who I am. Who am I then? The one who sees that. The awareness that is prior to thought, the space in which the thought ---or the emotion or sense perception --- happens.(P38)

「『頭の中の声』が私なのではないと実感するということは、何という解放感だろうか。それでは、私とは誰なのか。それを見ている者のことだ。思考に先立つ気づきのことだ。その中で思考や感情や知覚が起る場のことだ。」

思考よりも前にある気づきこそ本当の私だということは、エックハルト・トールが様々なところで繰りかえし語っていることだ。もちろんその解放感は、実際に認識の転換が起らなければ分からないことなのだろう。思考し、思考に執着し、思考こそが自分だと思っている「私」。しかし、思考の織物にすぎない「私」のはかなさ、根拠のなさ、夢幻のような脳内のイリュージョンに過ぎないということが実感として分かってしまえばどうなるのか。 それはきっと限りなく大きな解放感なのだろう。

◆夜中の3時ごろ夢から醒めた。夢の中で私は父母とともに生活していたが、帰るべき自宅がなく、三人で誰かの家に居候していた。私が働きに出るときは何かの事情で父母もつれて出なければならなかった。私は夢の中で道路の測量の仕事を担当していたが、準備が整わずほとんど一日、無為に待たされることになった。私は、何もできない長い時間を待った。

そしてはっと気づいた。父母も近くの公園で私の仕事が終わるのを待っていたのだ。かなり陽射しが強かった。公園に駆けつけた。父はすぐ見つかった。何もすることのない時間を、外でじっと待っていなければならない辛さを思って胸が痛んだ。車椅子の母がいなかった。母は病弱だった。やっと見つかった母は、全身に汗をかいて朦朧とし苦しそうだった。強い陽射しの中で耐えていたが、それがダメージになったようだった。私は、「病院は、救急車は」と気ばかりが焦っていた。

そんなところで目が覚めたようだ。外で何もすることもなく苦痛に耐えて待たなければならない父母への痛みが夢から醒めても胸に残っていた。何でこんな夢を見たのかよく分からない。(母は2004年に他界し、父は脳梗塞の後遺症はあるが共に生活している。)

もしかしたら、生きるということ、「私」という幻影に執着しつつ生きるといことは、父母や私が、不安を抱きながら苦痛に耐えて、無為に何かを待たなければならなかった状況と、基本的には同じことなのかも知れない。実際には様々なことを行うが、だれもその本当の意味をわかっているわけではない。なぜこんなことをするのか、大もとのところは何もわからず、心の奥深くには深い不安をかかえながら、帰るべきところもなくただ待っている。それが生きるということなのかも知れない。

そして「私」という執着から解放されるなら、この苦痛に耐えて無為に待つ人生という風景は一変するのかも知れない。
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コメントへのお返事(yasuさん、えりさんへ)

2009年06月16日 | サイト更新管理
yasuさん、えりさんへ

ブログの都合でこちらに直接お返事できないので、掲示板のお返事させていただきました。

こちらです。→掲示板:臨死体験・気功・瞑想
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心の穴を受け入れる

2009年06月14日 | 瞑想日記
◆『Stillness Speaks: Whispers of Now』は、もうすぐ4回目の読了となる。10回まで続けようと思っているが、4回目が最後まで行ったところでひとまず休止して、今度は同じくエックハルト・トールの『ニュー・アース』の英語本を読み、また心に響く言葉があったら紹介し、訳し、感じたことを記していくことをしばらく続けたい。英文で読むと、訳本とはまた違った受けとめ方ができるので、期待している。

ところで『Stillness Speaks: Whispers of Now』の方にも、章によって私に強く訴えかけてくる部分と、そうではない部分があった。たとえば第7章、Natureの、自然や動物に注意を注いで、気づきに至るというところは、今の私にはあまり訴えかけてくるものがなかった。

逆に今読んでいる第9章、Death & Eternal のところは強く訴えかけてくる。たとえば次のようなところ‥‥。

◆エックハルト・トール『Stillness Speaks: Whispers of Now』(訳書は、『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)より

形あるもの(財産、自分の身体の一部、肉親、家)など、自分の一部として同一化していた失われることは大いなる苦痛だ。それは、自分という織物にいわば大きな穴を空ける。

When this happens, don't deny or ignore the pain or the sadness that you feel. Accept that it is there. Beware of mind's tendency to construct a story around that loss in which you are assigned the role of victim.(P108)

「このようなこと(喪失の体験)が起ったとき、あなたが感じる苦痛や悲痛を否定したり、無視したりしないで下さい。それがあるということを受け入れてください。喪失の体験に関して、自分は犠牲者だという「物語」を作り上げる心の傾向に気づいてください。」

喪失によって心にぽっかりと開いた穴を、受け入れよ。それができれば、心の穴はもはや敵ではない。「この受容によって、予想もしなかった平和の思いが、心の和泉からあふれだすかもしれません。」(訳本のP189)

◆日常生活の中でサティをはじめると、自分の中の小さな苦痛に直面することが多い。日常的なさまざまな思い(雑念)は、苦痛を忘れさせる働きもあるのだろう。そんなとき私は、自分の命をはじめ一切がいずれ無に帰すことを受け入れ、前提とした生き方をしたいと思う。それは難しいことだが、それを感じるたびに、私の中で、たとえわずかでも何かが変わるのだと思う。それを感じて周囲を見直すと、身近な人に対する見方も、対し方も少し変わるような気がする。深い意味で苦痛は、私に覚醒をうながす素晴らしいプレゼントだ。
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仕事中のラベリング

2009年06月11日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『Stillness Speaks: Whispers of Now』(訳書は、『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)より

As long as the ego runs your life, most of your thoughts, emotions, and actions arise from desire and fear. In relationships you then either want or fear something from the other person. (P90)

「エゴが人生を支配するかぎり、思考や感情や行動のほとんどは願望と恐れから生じる。その結果、人間関係においても、相手に何かを求めるか、相手の何かを恐れるかの、どちらかなのである。」

日常の中で湧き起こっては消える、心のなかの独り言(思考)のほとんどは、半ば無意識に続いていく。あまりにめまぐるしく転変していくので、数秒前に考えていたことすら覚えていないことも多い。覚えていないだけでなく、自分が思考していたという自覚すらない場合が多い。そして、そういう内的な独り言に少しでも気づくようになると、そのつど湧きあがる思考や感情が、ほとんど自己中心的な願望と恐れからなっていることが分かる。

瞑想しているときや通勤途中のある程度長い歩行中はともかく、仕事や雑務に追われている最中には、めまぐるしい脳内独り言にどうやって気づけばいいのか。職務に必要な様々なことを考え、そこから関係のないところで思考が飛ぶこともおおいからか、職務に関係する思考と関係のない雑念との区別をいちいちしてサティすることは、ほとんど難しいのではないか。

しかし、最近また私は、ラベリングをかなり意識して、無自覚な日常の思考に少しでも気づきを入れようと思っている。意識してやろうと思えばできるように感じる。ただし、その場合いくつかのことを意識的に心がけようと思っている。

1)ラベリングを修行にしないこと。気楽に努力感なしで、はっと我に帰ったら軽やかにラベリングという感じか。

2)脳内のおしゃべりを禁止事項にしない。思考はいくらでもしていい。ただし、自分の思考気づいていること。思考と戦わない。ただ気づくだけ。

3)日常の雑務に追われていても、ひとつひとつ動作や行動にラベリングする。ラベリングが途切れてきたとしても、数十分ごとに短く深呼吸したり、目を閉じたりする習慣をつけておいて、その時をきっかけにラベリングに戻る。
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泡沫のような思考としての「私」

2009年06月08日 | 瞑想日記
エックハルト・トールの『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』は、去年の11月に一度読んだだけであった。再度、通して読んでみたいと思いカバンの中にいれた。読んだのは通勤電車の中だけだったが、今日は、前にアンダーラインを引いたところを中心に拾い読みしてみた。

忘れていたり、覚えていたにしてもこれまでと違った印象で迫ってくる文章も多かった。去年の11月に比べれば、受け取る私自身もかなり変化しているのだろう。

「ほとんどの人は依然として、絶え間ない思考の流れ(大半が無意味な繰り返してある)や衝動的思考に自分を完全に同一化している。この思考プロセスとそれに付随する感情から離れて『私、僕(I)』は存在しない。これはスピリチュアルな無自覚状態を意味する。」(P39)

「『自分の頭のなかの声』が実は自分ではないと気づくと、すばらしい開放感を味わう。では自分とは何なのか? 自分とは自分を見ている者だ。思考よりも前にある気づきであり、思考が――あるいは感情や知覚が――展開する場である。
 エゴとは、形への自分の同一化にすぎない。その形とは何よりも思考の形である。」(P29)

「気づきのない思考こそが人間の主たるジレンマである」(P42)


「気づきのない思考」の状態とは、昨日、ブログに書いたたとえでいえば、思考の渦に無自覚的に身をまかせている状態であろう。闇から現れ、闇への消えていく無限の思考の流れである。それに気づいていないということは、ほとんど夢の中にいるのと同じなのだ。

自分のもののようでありながら自分のものではない思考。それに同一化している。自分で制御できない思考の流れを「自分」であると勘違いしている。それは「自分」という形をなしているように見えるが、実は闇から現れ、闇へと消えていき、留まることを知らない、実体のない、泡沫のような言葉の流れに過ぎない。

「私」が「私」であることには何の根拠もない。それは、「私」を形づくっているのが、泡沫のような思考にすぎないからだ。それに執着することの愚かさ。
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