俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

生まれる前

2015-05-03 09:34:51 | Weblog
 誰も死んだことが無いのだから死んだ後のことは分からない、と言う。確かに仮死から蘇った人はいても死んで生き返った人はいない。しかし死んでいた人ならいる。誰もが、生まれる前は死んでいたからだ。少なくとも生きていなかったのだから死んでいたと言って良かろう。だから誰もが死んでいたことの経験者だ。
 勿論、誰一人、死んでいた時の記憶など無い。しかし数百億年に亘って死んでいたことは事実だ。主観的には「無」が延々と続いていたことになりこれは数学的にはゼロだ(0×α=0)。人は死んだ後のことは考えても生まれる前のことは考えないが、どちらもゼロだ。
 死んだ後がゼロだと分かれば何をすべきかも分かる。死んだ後のことを考えるよりも今生きている内に何ができるかを考えるべきだろう。
 人は徐々に枯れて行く。精神的にも肉体的にも不活発になってから枯れ死する。これは良いことだ。意欲に満ちてやる気満々の時に死ぬことと比べればずっと好ましいことだ。性欲は失せ、美味しい物も分からなくなり、動くことさえ億劫になれば、死ぬことはさほど苦痛ではなくなる。死ぬことが喜びでさえあり得る。死に対する恐怖が死ぬことに抵抗しているだけだ。
 私自身、老化しつつあることを感じる。毎日泳いでいても徐々にタイムが悪化している。中年までであれば鍛錬すれば向上したものだが、現状を維持することさえできなくなった。
 痒みは慢性化した。いつもどこかが痒い。多分、皮膚が老化して修復不能になりつつあるのだろう。視力も衰える一方だ。昔「35歳を超えると羊水が腐る」という軽率な発言をして倖田來未さんが顰蹙を買ったが、老化とは細胞の壊死だろう。それぞれの細胞が再生力を失えば腐り始める。不老不死ではない生物にとって老化は避けられない。
 人が死ぬとは生まれる前に戻るということだ。無と無の間に束の間の「有」がある。この貴重な「有」を無為に過ごすことは余りにも勿体ない。生きられる期間は短い。まるで成虫になってから3日後に死ぬセミのようなものだ。

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