俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

勿体なくない

2007-12-11 13:01:50 | Weblog
 食品の期限偽装事件の陰には「勿体ない」という気持ちが働いているのではないだろうか。
 賞味期限や消費期限が切れてもすぐに食べられなくなる訳ではない。多分、消費・賞味期限は「劣悪な条件で保管しても美味しく安全に食べられること」を基準にして定められているだろう。冷蔵や包装などの技術の向上により「劣悪な条件」と冷蔵した場合の差は大きく拡大している。最高の条件で保管すれば劣悪な条件の数倍長持ちすることは間違いなかろう。
 雪印乳業が賞味期限切れの牛乳を再利用して集団食中毒事件を起こした時には、炎天下で作業をしたりして通常に保管するよりも悪い条件で、再利用・再々利用をしていたのだから食中毒が起こっても当然だ。昨今問題になっている偽装は食中毒を起こすほど悪質ではない。充分食べられる物を廃棄するのは勿体ないという思いもあってのことだろう。
 私個人は消費・賞味期限が多少過ぎていても平気で食べる。しかし個人が自己責任で勝手にやっていることと企業としての偽装とは全く別の話だ。食中毒を起こさないレベルなら偽装しても構わないという訳ではない。消費者は表示を信じて購入するのだから。 

辛くない死

2007-12-11 12:45:31 | Weblog
 老化が進むと性欲も食欲も衰える。一方あちこちの関節などが痛み始めるし、心ならずも加齢臭を放って周囲から嫌われ始める。楽しいことは減り辛いことばかりが増える。この状態が更に進行するとまるで拷問をされているような状態になる。拷問される人はしばしば「いっそ一思いに殺してくれ」と思うらしいが、老化の進行は生に対する執着心を喪失させる。
 私の祖父は寝たきりになり尿も満足に出せなくなり、尿道に針金を通して血の混じった尿を排泄していた。「痛いよう」と言い続けて死んだ。
 老化は生を諦めさせるための悪意のプログラムなのだろうか。「生きたい」という思いは若く健康な人にだけ許された特権なのだろうか。

騒々しい電車

2007-12-11 12:36:27 | Weblog
 以前は電車の中は静かだった。大声で話すのは酔っ払いと子供と団体客ぐらいだった。ところが騒々しい人が増えて読書しづらい環境になってしまった。小学生から大学生くらいまでが子供や酔っ払いと同様、大声で話すようになった。
 話し声は当事者以外にとっては騒音でしかない。だから普通は、閉鎖された空間では小声で話すものだ。周囲にとっては騒音でしかない大声で話して周囲に迷惑を掛けても平気でいるのは多分周囲が見えていないからだろう。自分と仲間しか実在していないとでも思っているのだろうか。それとも自らの「ご高説」を有り難く拝聴させてやっているつもりなのだろうか?