文部科学省が、「義務教育の改革案」を打ち出し、その中で「義務教育費国庫負担制度については、義務教育の根幹を支える財源保障としての役割」があると強調し、地方6団体の要求に真っ向から対決姿勢をもっていることは既に書いた。しかし、いろいろなニュースを見ていて、この「義務教育費国庫負担制度」の内実がはっきりしていないままいろいろ言われているのには驚かされる。
ここで言われている「義務教育費国庫負担制度」というには、「国が義務教育を確保するために義務教育国庫負担金を支払っているよ」ということであるが、この負担金とは、小学校と中学校の教員の給与の半額を負担しているということである。残りは、もちろん地方自治体が負担している。文科省は、このお金を地方に一般財源として移譲してしまうと、貧しい県は、教育費に支給されず、他のことにまわされることになり、従って義務教育が保障されなくなると言いたいらしい。
文部科学省の2004年度の一般会計予算は、総額で6兆599億円である。そのうち、「義務教育費国庫負担金」は2兆5128億円である。これが、小中学校の教員の給与の半分に当たるわけだ。このほかに、義務教育に関係する予算としては、施設費等の3906億円があり、これは施設補助金として交付される。「義務教育費国庫負担金」は文科省の総予算の約41%を占めている。また、この「義務教育費国庫負担金」の適切な配分のための文科省職員の作業のための費用も当然文科省は負担しているのであり、相当な金額がかかるものと思われる。もちろん、地方自治体の資料作りや申請作業も膨大な事務経費がかかるものと思われる。
これに対して、地方6団体は次のような反論をしている。
地方自治体としては、「義務教育費国庫負担金」を通じて国がさまざまな規制をすることが問題であり、現在では、実際教員の給与以外の費用は施設費の一部を除いて全て地方自治体が確保しているのであり、義務教育費の総額に対する国の貢献は30%以下になろうとしていると言う。本当に、「義務教育費国庫負担金」が大事でそれが国の義務教育に対する責任だというなら、義務教育にかかる費用の全体の半分以上を国が負担すべきだと言う。いろいろな財源削減により、義務教育に関わる費用は地方自治体に70%以上も負担させておいて、教員の数の管理について規制し、それが義務教育を支えていると言うのは、単なる文科省の既得権益を守るためだと言いたいらしい。
確かに、国の義務教育に対する指導はミニマム(最低基準)であるとするなら、教員の数についても、地方自治体によっては増加させてもいいわけだ。もっと教育に金をかけようと言う地方自治体にとっては、文科省の規制はよけいなお節介である。しかし、経営の厳しい地方自治体の場合はどうなるだろうか。この場合は、地方自治体の方針次第と言うことになる。地方自治体によっては、教育費を減額するかもしれない。あり得ないことではない。それを、地方の人々が許容するかどうかだと思う。
いまは、国も地方自治体も財政赤字を抱えているという点では同じだ。地方はだめで、国なら大丈夫だと本当に言えるのか。現に、小中学生の教科書の無償配布は、国が負担しているわけではない。これは、地方自治体の負担になっている。むしろ、「義務教育費国庫負担金」だって少しずつ減額されていくのではないか。二分の一が三分の一になったとしても、おそらく文科省の管理は変わらないのであり、そういうようになっていくのが目に見えている。すでに自民党内では、公然とそういう案が提案されようとしている。
何故、文科省は「義務教育費国庫負担金」として、教員の給与と施設費の補助金だけを残しているのか、もう一度検討すべき時かもしれない。地方自治体に対する権限を少しでも残しておきたいという魂胆があるのなら、それはやめるべきだと思う。「義務教育費国庫負担金」を一般財源にするかどうかより、国も地方も財政的に厳しい中で、どのように効率よく義務教育のための財源を確保していくかだと思う。それを解決したら、多分、「義務教育費国庫負担金」を国が負担するのか、地方自治体が負担するのかは問題でなくなるような気がする。どちらにしても、国民の税金を使うことは確かだ。
ここで言われている「義務教育費国庫負担制度」というには、「国が義務教育を確保するために義務教育国庫負担金を支払っているよ」ということであるが、この負担金とは、小学校と中学校の教員の給与の半額を負担しているということである。残りは、もちろん地方自治体が負担している。文科省は、このお金を地方に一般財源として移譲してしまうと、貧しい県は、教育費に支給されず、他のことにまわされることになり、従って義務教育が保障されなくなると言いたいらしい。
文部科学省の2004年度の一般会計予算は、総額で6兆599億円である。そのうち、「義務教育費国庫負担金」は2兆5128億円である。これが、小中学校の教員の給与の半分に当たるわけだ。このほかに、義務教育に関係する予算としては、施設費等の3906億円があり、これは施設補助金として交付される。「義務教育費国庫負担金」は文科省の総予算の約41%を占めている。また、この「義務教育費国庫負担金」の適切な配分のための文科省職員の作業のための費用も当然文科省は負担しているのであり、相当な金額がかかるものと思われる。もちろん、地方自治体の資料作りや申請作業も膨大な事務経費がかかるものと思われる。
これに対して、地方6団体は次のような反論をしている。
1 義務教育は、地方の自治事務。中央政府の専管事項ではない。
2 義務教育の根幹は、①機会均等、②水準の確保、③無償制であり、国庫補助負担金制度の存続とは別の問題。
3 問題は、義務教育に要する財源を、地方自治体がどのようにして確保することが、地域や児童生徒にとって望ましいのかということ。
4 義務教育費国庫補助負担金を一般財源化した場合、都道府県が教職員の給与に関し、必要な支出を確保しようとしない事態が万一生じても、国がその是正を求めることにより、その支出を制度的に担保することが現行の法律においても可能。現行の法律による担保が不十分と考えるなら、法律改正も可能。
地方自治体としては、「義務教育費国庫負担金」を通じて国がさまざまな規制をすることが問題であり、現在では、実際教員の給与以外の費用は施設費の一部を除いて全て地方自治体が確保しているのであり、義務教育費の総額に対する国の貢献は30%以下になろうとしていると言う。本当に、「義務教育費国庫負担金」が大事でそれが国の義務教育に対する責任だというなら、義務教育にかかる費用の全体の半分以上を国が負担すべきだと言う。いろいろな財源削減により、義務教育に関わる費用は地方自治体に70%以上も負担させておいて、教員の数の管理について規制し、それが義務教育を支えていると言うのは、単なる文科省の既得権益を守るためだと言いたいらしい。
確かに、国の義務教育に対する指導はミニマム(最低基準)であるとするなら、教員の数についても、地方自治体によっては増加させてもいいわけだ。もっと教育に金をかけようと言う地方自治体にとっては、文科省の規制はよけいなお節介である。しかし、経営の厳しい地方自治体の場合はどうなるだろうか。この場合は、地方自治体の方針次第と言うことになる。地方自治体によっては、教育費を減額するかもしれない。あり得ないことではない。それを、地方の人々が許容するかどうかだと思う。
いまは、国も地方自治体も財政赤字を抱えているという点では同じだ。地方はだめで、国なら大丈夫だと本当に言えるのか。現に、小中学生の教科書の無償配布は、国が負担しているわけではない。これは、地方自治体の負担になっている。むしろ、「義務教育費国庫負担金」だって少しずつ減額されていくのではないか。二分の一が三分の一になったとしても、おそらく文科省の管理は変わらないのであり、そういうようになっていくのが目に見えている。すでに自民党内では、公然とそういう案が提案されようとしている。
何故、文科省は「義務教育費国庫負担金」として、教員の給与と施設費の補助金だけを残しているのか、もう一度検討すべき時かもしれない。地方自治体に対する権限を少しでも残しておきたいという魂胆があるのなら、それはやめるべきだと思う。「義務教育費国庫負担金」を一般財源にするかどうかより、国も地方も財政的に厳しい中で、どのように効率よく義務教育のための財源を確保していくかだと思う。それを解決したら、多分、「義務教育費国庫負担金」を国が負担するのか、地方自治体が負担するのかは問題でなくなるような気がする。どちらにしても、国民の税金を使うことは確かだ。
教育は、体制を維持するためにも、また体制を変えていくためにも有効です。いわば、両刃の剣です。
ところで、ナショナルカリキュラムは、最近ではアメリカやイギリスで取り入れられています。
アメリカやイギリスでは、既に、日本が「ゆとり教育」を標榜していたころ、グローバルな世界で生きていくための高度な学力をつけるためにナショナルカリキュラムをつくっています。
それぞれの学校が勝手にやっていたのでは、学力が向上しないと考えたのだと思います。
1980年代半ば、アメリカの圧力のもと、日本は輸出を抑え、内需を振興し、まあ、バブルに突入しました。価値観の多様化という名の下にあまり勉強を強要しなくなりました。
そのとき、アメリカやイギリスは、学力が低下したと言うことで、学力向上に取り組んだのでした。
今、周回遅れで、日本はアメリカ・イギリスのような新自由主義的な教育に向かっています。
それが、いいことか悪いことは、よくわかりませんが、「選択」と「自己責任」が新しい教育のキーワードであるようです。