電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「書簡録」という新しい試み

2004-11-09 21:37:50 | デジタル・インターネット
 松本英明さんが、「書簡録」という企画を開始した。melma!のシステムを利用したメルマガ+ブログ連動企画だと言う。松本さんは、「絵文禄ことのは」をメインのブログにしていて、「土佐日記ブログ」という試みをしたり、「女子十二楽坊資料館」というサイトを運営したりしている。私がブログを始めようと思ったのは、松本さんの『ウェブログ超入門!』(日本実業出版社)を読んだからだ。早速、melma!にも登録してみた。
 「土佐日記ブログ」は、原文が紀貫之の日記なので、ブログに合う。コメントも自分でつけたりして工夫できる。なかなか面白い工夫だ。私も、『徒然草』をやってみようかと思って少し調べてみたことがあるが、いくつかの翻訳サイトがすでにあり、断念した。松本さんは、「メルマガ形式で、歴史上の人物からメールが届いたら面白いかも」と言うアイデアからいろいろ考えていて、この連動企画を開始したと言う。

 メルマガのバックナンバーをブログ形式で保存したら、すこぶる便利になるんじゃないかな、と思いました。そこで「メルマガとブログの連携」というスタイルを探してみたところ、melma!にはメルマガをブログにも同時投稿できる機能があったわけです。


 この「書簡録」は、今日から始めたのに、もう二つの手紙が投稿されている。一つは、ユリウス・カエサルの「カエサル勝利の手紙」であり、もう一つは、良寛の「三条大地震の見舞い」の手紙である。とても面白いと思ったが、この二つの手紙を読んで、私は、すぐに、一方ではアメリカのイラク戦争が、他方では新潟中越地震が思い浮かんだ。

 カエサルのローマの元老院に送った勝利の手紙は、小アジアのポントスの王ファルナケスとの戦いに勝ったときに書かれたものだ。もちろん、元老院に送った手紙はこれだけではないが、カエサルは戦果の報告をこの「veni, vidi, vici.」の三語で始めたという。この言葉については、『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後 [中]』(新潮文庫12)の中で、塩野七生さんが次のような面白い話を紹介している。

 まったく、「賽は投げられた」とか、後日の「ブルータス、お前もか」とか、カエサルにはコピー・ライターの才能もあったと思うしかないが、そう思うのは私だけではないようで、「来た、見た、勝った」を原文のラテン語で目にするのは実に簡単なのである。アメリカはフィリップ・モリス社のマールボローの一箱を買えばよい。タバコの入っているケースの表裏ともについている紋の下に「VENI,VIDI,VICI」(ヴェニ、ヴィディ、ヴィチ)とある。まるで、マールボロー・マン、つまり典型的アメリカ男のライフ・スタイルは、「来た、見た、勝った」であらねばならないとでもいうふうである。(p19・20)

 良寛の「三条大地震の見舞い」のほうは、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」という言葉だけ読んだことがある。全文を読んだのは初めてだ。「うちつけにしなばしなずてながらえて かかるうきめを見るがわびしさ」という歌は、良寛らしい。しかし、「災難をのがるる妙法」と言われても、私たちはなかなか達観できない。「災難」は怨めしい。やがて立ち直って、時間が忘れさせてくれるまで、私たちは「災難」を怨めしく思うものだ。ただ、歴史の過去から良寛がこういう手紙を私に送ってくれたのだと思えば、何となくそれもそうかも知れないなと考えさせられる。

 そんなことを考えていると、どんなメルマガが来るか楽しみになった。
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葡萄の正しい食べ方?

2004-11-08 22:24:07 | 生活・文化
 葡萄は、皮ごと食べるのが正しい食べ方だ、と妻に教えられた。なぜそうなのかわからないが、日本人は皮をむいて食べ、その上種まで出す人がかなりいる。私もそうだ。妻はイタリアにいって、イタリア人に習ったそうだ。確かに、ローマのイタリア人の葡萄の食べ方のほうが、伝統的で正しい食べ方だと言う気がしないわけではない。それで、インターネットで調べてみた。すると、葡萄の食べ方としては、皮も種も食べた方が美味しく食べられるというのが定説らしい。
 イタリアにマンドリン留学をされている西山みきさんのお便りによれば、やはり、イタリアでは皮ごと食べているという。

 さて葡萄の食べ方ですが、こちらでは皮ごと食べてしまうの、知ってますか? 日本と逆で、あとから種を出す人はいますが、皮はマナー上なのか習慣上なのか理由はともかく飲み込んでしまいます。私は小さい頃、誰だったか「種ごと飲み込むと頭から芽が出てくるよ。」と脅かされた覚えがあります。消化に悪いからということなのでしょうが日本に帰れば余程大きくない限り、やはり葡萄の種は飲み込み、皮は中身を口の中に押し出して捨てています。


 そうなのだ。私も同じように種を食べると脅かされた覚えがある。だから、葡萄もスイカもメロンもミカンも、つまり果物はどんなものでも種を出すのが当たり前だと思っていた。だから、小さな果物になればなるほど、食べるのが面倒になる。特に、甲州葡萄など小粒な葡萄はとても食べにくいと思っていた。

 これに比べて、ヨーロッパの人たちは、「果皮をむかずに、そのまま口に入れ、種まで、ガリガリガリ……と砕いて食べる人が多い」と言う。「ピエール松尾のワインサロン」で松尾さんは、「赤ワインの渋味成分受容における欧州と日本との相違点」の中で次のように述べている。

EuropeのHotelに、Check-inすると、客室に、Welcome Fruitsが、置いてあることがあります。たいてい、葡萄がありますが、ズルッと果皮がむけるタイプの葡萄は、ありません。無理にむこうとすると、果皮が爪の間に挟まって苦労します。
欧州の人達には、皮離れが良く、種が無い葡萄の、品種改良をしている日本人が、まったく理解できないかもしれません。実際、1つの葡萄の実そのままに、衣を着けたような、お菓子さえあります。
ちなみに、皆様が、仮に、巨峰等の葡萄を食す際に、皮をむく場合は、皮を外してから、口に含むのではなくて、果皮ごと口に含み、その後で、皮と種を出したほうが良いです。なぜならば、主要な栄養成分(身体に良い成分)は、果皮と果肉との間に、存在しているからです。


 つまり、日本の葡萄は、私のような食べ方をする日本人に合うように品種改良されてきたわけだ。だから、日本では、皮をむき、種を出すのが常識かというとそうでもないのだ。「山梨ビジターズ・ネット通信 第70号2003/10/8」の編集後記で山梨県観光物産連盟の内藤美恵さんは、少し違った食べ方を紹介している。

秋の果物といえばぶどう。そのルーツ甲州種の葡萄は1200年の歴史を持つ日本固有の葡萄ですが、この甲州葡萄の食べ方には、ポイントがあります。
中の果実を皮から押し出すようにして口に含み、そのまま一気に飲み込むのです。そうすると、甘酸っぱい甲州独特の香りが広がります。果実を噛んで種を出そうとすると、酸っぱさが広がってしまいます。種を出さないで飲み込むことに山梨の人は全く抵抗はありません…。一度お試しくださいませ。


最も、「LES VINS DE BORDEAUX」の加藤尚孝の日記によれば、ワイン用の葡萄を食べるときに種まで食べるのには理由があるという。

造り手のオヤジだけでなく、フランス人のブドウの食べ方は、皮も種も食べてしまう人が多い。特にワイン用のブドウを食す際には、種まで食べるのが常識になっている。というのは、ほとんどすべての造り手がブドウの熟しを見る際、「種の熟し」を特に大切にしている。
ワイン用のブドウは食べても美味しくないという通説が流れているがそんなことは無いと断言する。とても甘くて美味しい。ただ、種までボリボリすると苦味やえぐさが出でくる。そのようなブドウはいくら果汁が甘くても、熟して無いとみなされる。

 また、山本農園の山本さんの「ブドウの皮をむいて食べるのは日本人だけ?」によれば、葡萄は皮ごと食べた方が美味しいという。

 果物全般にいえることですが、本来は皮には実にない栄養を含んでいるので、果物は皮ごと食べた方が美味しいはずなのです。だいたい果物は、皮と実の間が美味しいのです。ミカンなどはよく洗って皮ごと食べると、ちょっと強烈な味ですが慣れるとこちらの方が美味しいと思います。リンゴなどは特にそうですね。それでおなかをこわすなどということは、絶対にありません。

 ということで、結論は皮も種も一緒に食べてよいというだけでなく、その方が美味しく食べられると言うことになる。慣れないと、違和感を感じるかもしれないが、すぐに美味しくなりそうな予感がする。妻は、「大丈夫よ。綺麗に洗ってあるから」というが、日本の葡萄は農薬を沢山使っているような気がして多少心配もある。しかし、食べないまでも口の中に入れたり舐めたりしているのだから同じことだと妙な納得をした。楽しみが一つ増えた。
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飯能まつり

2004-11-07 22:23:07 | 生活・文化
 「飯能まつり」は、毎年、11月の第1土曜と第1日曜に行われている。昨日が前夜祭で今日が本祭。今日は、親子3人で10時半に家を出た。駅まで自転車で行き、駐輪所に自転車を預け、駅前から歩く。駅の近くの銀座通り商店街に面した広場では、役所や青年会議所関係の出店があり、新潟中越地震の募金活動をしていた。この秋晴れの空を、遠く、新潟の被災地の方々はどんな思いで眺めているのだらうかと思うと、浮かれていられないような気がした。今日はできるだけ食べ物は買わないようにして、その分見舞金にまわそうと決める。妻がその方が身体のためにもいいのよと言う。
 「銀座通り商店街」から「大通り商店街」に行き、出店を冷やかしたり、山車をみたり、子供会や幼稚園の演技を見たりした。飯能まつりの本祭りに出てくる山車は10台であり、大きく分けると上部に人形を乗せた「江戸型山車」と、唐破風屋根になっていたり彫刻がされていたりする「屋台型山車」の2つになる。 10の旧町内会がそれぞれ山車を持っており、それぞれ、双柳、1丁目、2丁目、3丁目、河原町、宮本町、原町、前田、柳原、中山といい、今年の当番町は前田囃子保存会である。

 私の住んでいるところは、旧柳原地区に属しており、柳原囃子保存会がある。夕方家に帰る途中に柳原自治会館があり、そこで練習している小中学生をよく見かける。4月、7月、11月の祭りの他に発表会などがあるようで、月2回の定期練習をしている。平成14年から飯能市立加治小学校の教育の一環として5年生が柳原囃子保存会から囃子指導を受けている。加治小学校では「底抜け屋台」も地元の方の製作で寄付され、外で演奏する時に使用しているそうだ。我が息子は残念ながら、参加していない。5年生になったら経験することになるはずだが、今のところは、祭りを見に行くのは好きだが、自分で演ずるのはいやなようだ。

 今日は、感心なことにその息子は、150円のチョコバナナを1本買い、300円のくじ引きを1回やっただけだ。12時少し前に、昼食を食べる。飯能にきて3年だが、毎年飯能まつりの時は「大通り商店街」にあるビジネスホテルの前の庭でカレーライスを食べている。6人がけのテーブルが4つ並んでいるだけの簡素な場所だが、通りから少し入ったところで、山車が通るのを見ることができる。メニューはカレーライスと山菜そばと山菜うどんとコーヒーしかない。カレーライスはお祭り価格で350円。田舎風のカレーで、子どもも私も気に入っている。不思議なもので、沢山の出店があり、そこでいろいろな食べ物を売っているが、ここにも何人かやってくる。

 食後、「原町商店街」、「中央通り商店街」を見て、飯能駅に戻る。飯能駅の中に、「ユニクロ」があり、そこで子どもの洋服を少し買ってから、本屋に寄り、自転車に乗って帰る。家に帰り着いたのは、2時だった。人通りの多い中を歩くのは、さすがに疲れた。でも、飯能市民になって、なんだかんだ言いながら、飯能まつりには必ず行っている。何となく、市民としての義務のような気になってきたのは、ここを終の棲家と決めたからかもしれない。

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「プロゴルファーさくら 旅立ちの秋」

2004-11-06 15:27:26 | スポーツ・ゲーム
 昨日の夜、NHK総合テレビで人間ドキュメント「プロゴルファーさくら 旅立ちの秋」が放映された。横峯さくらのいままで知らなかったいくつかの興味深い側面を見ることができた。まるで、どさ回りの役者のように、親子二人、マイクロバスで日本全国を転戦する姿は、微笑ましい。また、ほとんど女の気持ちなどわかっていないようで、平気な顔をして娘のゴルフウエアのアイロンかけをしていた父親と、何となく気恥ずかしいようで、まるで怒っているかのように対応する娘のさくらの様子が印象的だった。
 横峯さくらのゴルフの魅力は、全くの我流の豪快なスイングと、負けん気の強さにあるしかし、彼女は、若く、かわいらしい女性だ。金さえあれば、新幹線や飛行機で現地へ行き、ゴルフ場の近くの心地よいホテルに宿泊し、タクシーでゴルフ場へ行きたいに違いない。聞くところによると、ゴルフの試合に出るためには交通費なども含めて1回20万円くらいの費用がかかるそうだ。しかも、試合に出ても予選を通過しない限り、1銭ももらえない。だから、プロになってもトーナメントで上位にいかないと生活は苦しい。

 宮里藍が今年4勝し、賞金総額がもうすぐ1億年になろうとしている。これは、20歳前の女子のスポーツでの稼ぎとしては最高だそうだ。つまり、ゴルフというのは、女子のスポーツでは最も稼げるスポーツだと言うことになる。おそらく、横峯親子の夢は、ゴルフで自分たちの実力を示し、沢山稼ぐことだと思う。そして、今のハングリーな生活から抜け出すことだと思う。そうすることにより、今まで周りの人たちから自己流のゴルフのやり方に対するさげすみを受けてきたことに対して見返しもできるはずだ。それは、悪いことではない。

 さくらのキャディーを務めるのは居酒屋を経営する父・良郎さん(43歳)。練習場は鹿児島の自宅近くの山を切り開いた手作り。またマイクロバスをこれも自前で改造し、さくらと寝泊まりしながらツアーを転戦する。その間、母の絹子さんは、一人で居酒屋を切り盛りする。いま一家は、さくらの夢を中心にまわっている。


 ところで、横峯一家は、このほかにさくらの姉が二人いるはずだ。NHKのドキュメンタリーでは一言もそれに触れられなかったように思う。二人ともゴルフをやっているはずだ。長女は横峯留衣でさくらの1年前にプロゴルファーになっている。次女については、よくわからないが、3人姉妹だということは知っている。彼女たちは、おそらくさくらほど才能がないのかもしれない。しかし、彼女たちがゴルフに対してどのように考え、さくらに対してどのように考えているのか、知りたかった。この映像では、父親も母親もさくらだけを大事にしているように見える。長女も次女もすでに片づいたということかもしれない。

 タイトルの「旅立ち」の意味は、おそらく、さくらが自立し、1人でゴルフをやっていけるようになることを意味するのだろう。その意味では、日本女子オープンゴルフ選手権競技で2位になり、ほぼ来年のシード権を確保したことよりも、父親とこれに勝ったらキャディーをやめてもらうことを約束したステップアップ競技で優勝したことのほうが意義は大きい。ステップアップ競技では、専属キャディはだめなので、さくらは自分ひとりで戦わなければならなかった。

 少女から大人になること、アマからプロになったこと、今年既に1500万円以上稼ぎ、経済的にも自立できるようになったこと、そして父親から離れて自分ひとりで戦い勝ったこと。父親の良郎さんは「少しさみしい」とつぶやいていたが、さくらは何時までも子どもで父親の庇護のもとにいたくないのが当たり前だ。よけいなお世話かもしれないが、良郎さんは、これからスターの道を歩むことになるさくらの代わりに、他の二人の姉の幸せを考えてあげたほうがいいのではないかと思ってしまった。さくらの夢のこれからだが、良郎さん夫婦はこれでさくらの戦いには一区切りがついたと考えた方がいいと思ったからだ。

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ブログと引用について

2004-11-04 23:12:20 | デジタル・インターネット
 「絵文録ことのは」の松本英明さんが、「木村剛の「マスメディアへの対抗意識」は時代錯誤。中越地震マスゴミ批判記事を検証する」で「週刊!木村剛」の「これが新潟県中越地震の真実だ!」を巡る一連の論争の問題点をまとめ、検証している。私は、松永さんにおおよそのところで賛成だが、木村剛さんの最初の記事については、もっと単純な気もする。つまり、「引用」の基本ができていなかったのだと思う。最近、いろいろなブログを見ていて、「引用」と言うことがかなりいい加減に行われていることに唖然とさせられることが多い。
 他人の文章を引用するには、自分の文章と「引用文」とをはっきり区別して、明示しておくということが大切だ。著作権法第32条に次のようにある。

第32条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。


 ここでは、3つのことが述べられている。①公表された著作物であること、②引用の仕方は公正な慣行に合致していること、③引用の目的上正当な範囲内で行わなければならない、ということである。①は「公表された著作物」であるから、手紙などは書いた人に了解を得なければ引用することはできないということでもある。また、②の「公正な慣行」とは、「原文のままに」、「引用文だとわかるように」、「出典を明示する」ということである。つまり、他人の文章を勝手に持ってきて、自分の文章の中にそのまま紛れ込ませることは「引用」ではなく、剽窃という。③の「正当な範囲内」というのは、自分の文章が主で、「引用文」は従であるという関係であることを意味する。引用文を並べただけのものや、必要以上の長文の引用は、「引用」とは言わずに「転載」であり、その場合は、著者の了解が必要であるということだ。

 おそらく、木村剛さんもこうした手続きを正確に行えば、当然混乱は起きなかったと思う。木村さんは元の「天漢日乗」のブログへのリンクを張ってあるからいいと考えたのかもしれないが、これは、「引用」ではなく「転載」であり、かなり「改変」された「転載」である。おそらく、その旨、原著者に当たれば、著者は何らかの返答をするはずだ。そうすれば、多分、「抜粋をお読みください」等ということはなかったと思う。

 これらは、木村さんだけでなく、現在のブログ全体において問題になっているように思う。ある意味では、著作権の問題以前のことかもしれない。他人の文章に対する読者としての姿勢の問題かもしれない。ブログには、「コメント」や「トラックバック」の機能があるのだから、それをフルに活用すると同時に、リンクを使い、必要最低限の「引用」をするように心がければ、かなりの混乱は防止できるように思う。
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