岩村田宿(英泉作)
この浮世絵が面白い!
他の栄泉の木曾街道六拾九次とは全く異なる作品ですね。
ちょっと調べてみたんですが、座頭の喧嘩らしいです。
参考:浮世絵に聞くより以下抜粋
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総括すると、岩村田は南の甲斐からの道と、北の信濃・越後からの道とが交差し、古くから甲信越の交通の要地と確認できます。なかでも注目すべきは、前述の信玄ゆかりの龍雲寺が当所にある理由でもあるのですが、信玄は岩村田より信濃に侵攻しているという歴史です。つまり、座頭の喧嘩は、甲斐武田勢の信濃侵攻とそれに対する信濃の武将・越後上杉勢の反撃を擬(なぞら)えて物語るもので、端的に言えば、古(いにしえ)の川中島合戦を描くものなのです。また、戦国時代、大井城は武田方の城であり、その城跡は、甲信越諸将の戦国絵巻を描いたことを示す記号となっているのです。さらに、次の宿場・塩名田の西側には千曲川が流れています。とすれば、街道を旅する座頭達の喧嘩を越えて、往古の川中島合戦の戦模様が眼前に浮かんではきませんか。一里塚に腰を下ろす親分風の座頭は床机に座す武田信玄、中央で杖を高く振り上げる座頭は山本勘助、そしてそれと対峙する鉢巻姿の座頭は上杉謙信でしょうか。右下で小銭を6枚ばら撒いてしまった座頭は六文銭の真田かもしれません。したがって、大井城跡は海津城の見立てとなります。
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さて、私の道中記に戻ります。
「あめのこばやし」という元お菓子直売の店。
今は閉店してしまって看板もおろしてしまったようです。
以前の姿はコレ
どんな飴を作っていたんでしょうか?
調べても分かりませんでした。
たぶん、店仕舞いはかなり昔のことだったんでしょう。
実に残念です。
石仏石塔群
素晴らしい背景と石塔なのですが、交差点の角なんでカーブミラーが邪魔ですね。
でも、このあたり見通しは良さそうなところなんですが、反射鏡必要なんですかね?
昭和レトロの看板
皎月原(こうげつはら)
松の木立の中にある大きくない原っぱです。
ですが、名勝とありました。
云われは、案内板によれば
案内に「白山大権現」というのが出てきましたね。
といえば、思い出すのは大河テレビドラマの「真田丸」
真田屋敷の昌幸の部屋の床の間の掛け軸が「白山大権現」でした。
そして、真田の郷は、小田井宿の皎月原に近いから、年代的な差はあるものの関係あるかもしれませんね。
この巨大な石↓に真田幸村が座ったかもしれません。
石仏石塔群です。
県道脇の墓地の入り口にありました。
見過ごしてしまうような場所で、手入れもされてない感じなのですが、それが何とも言えない寂れた良さがあって、しばし、ここで休憩しました。
住吉神社境内の樹齢400年の大ケヤキ
この住吉神社あたりが岩村田宿の江戸口になります。」
このオオケヤキは「ど根性欅」なのでした。
この欅の左側面を見てみると↓
火事で空洞になっているのです。
よく生きているなと感心するばかりです。
岩村田宿の街中ですが、商店が古びていて活気がないように見えます。
地方の商店街の不活性な有様は、いつも残念に思います。
これから帰京のために向かう佐久平駅辺りには巨大な大型商業施設ができていて、客はそちらに奪われてしまっているのでしょう。
創業承応2年(1653年)の戸塚酒造
この日は日曜日で開いてませんでした。
佐久といえば鯉
鯉は酢味噌で食べる「あらい」以外は食べたことがありませんが、塩焼き、鯉こく、甘露煮など色々な料理があるようです。
正直なところ、「あらい」は好んで食べることはないです。
踏切の先にモスクのようなものがありますが、佐久市子ども未来館(サクモ)という建物の様です。
モスクならぬサクモだそうです。
多数の石塔がならんでいて、立派です。
ココを今日の終着地点としました。
次回はココから右の方へスタートします。
その反対側の景色
遠くに大型商業施設と佐久平の駅が見えます。
駅のそばには大型スパ施設があり、そこで風呂を浴び、食事をして帰京しました。
次は、いよいよ最大の難所ではないかと思われる和田峠越えがあります。
暖かくなった時期に走ろうと思います。
(終わり)
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
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他の栄泉の木曾街道六拾九次とは全く異なる作品ですね。
ちょっと調べてみたんですが、座頭の喧嘩らしいです。
参考:浮世絵に聞くより以下抜粋
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総括すると、岩村田は南の甲斐からの道と、北の信濃・越後からの道とが交差し、古くから甲信越の交通の要地と確認できます。なかでも注目すべきは、前述の信玄ゆかりの龍雲寺が当所にある理由でもあるのですが、信玄は岩村田より信濃に侵攻しているという歴史です。つまり、座頭の喧嘩は、甲斐武田勢の信濃侵攻とそれに対する信濃の武将・越後上杉勢の反撃を擬(なぞら)えて物語るもので、端的に言えば、古(いにしえ)の川中島合戦を描くものなのです。また、戦国時代、大井城は武田方の城であり、その城跡は、甲信越諸将の戦国絵巻を描いたことを示す記号となっているのです。さらに、次の宿場・塩名田の西側には千曲川が流れています。とすれば、街道を旅する座頭達の喧嘩を越えて、往古の川中島合戦の戦模様が眼前に浮かんではきませんか。一里塚に腰を下ろす親分風の座頭は床机に座す武田信玄、中央で杖を高く振り上げる座頭は山本勘助、そしてそれと対峙する鉢巻姿の座頭は上杉謙信でしょうか。右下で小銭を6枚ばら撒いてしまった座頭は六文銭の真田かもしれません。したがって、大井城跡は海津城の見立てとなります。
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さて、私の道中記に戻ります。
「あめのこばやし」という元お菓子直売の店。
今は閉店してしまって看板もおろしてしまったようです。
以前の姿はコレ
どんな飴を作っていたんでしょうか?
調べても分かりませんでした。
たぶん、店仕舞いはかなり昔のことだったんでしょう。
実に残念です。
石仏石塔群
素晴らしい背景と石塔なのですが、交差点の角なんでカーブミラーが邪魔ですね。
でも、このあたり見通しは良さそうなところなんですが、反射鏡必要なんですかね?
昭和レトロの看板
皎月原(こうげつはら)
松の木立の中にある大きくない原っぱです。
ですが、名勝とありました。
云われは、案内板によれば
案内に「白山大権現」というのが出てきましたね。
といえば、思い出すのは大河テレビドラマの「真田丸」
真田屋敷の昌幸の部屋の床の間の掛け軸が「白山大権現」でした。
そして、真田の郷は、小田井宿の皎月原に近いから、年代的な差はあるものの関係あるかもしれませんね。
この巨大な石↓に真田幸村が座ったかもしれません。
石仏石塔群です。
県道脇の墓地の入り口にありました。
見過ごしてしまうような場所で、手入れもされてない感じなのですが、それが何とも言えない寂れた良さがあって、しばし、ここで休憩しました。
住吉神社境内の樹齢400年の大ケヤキ
この住吉神社あたりが岩村田宿の江戸口になります。」
このオオケヤキは「ど根性欅」なのでした。
この欅の左側面を見てみると↓
火事で空洞になっているのです。
よく生きているなと感心するばかりです。
岩村田宿の街中ですが、商店が古びていて活気がないように見えます。
地方の商店街の不活性な有様は、いつも残念に思います。
これから帰京のために向かう佐久平駅辺りには巨大な大型商業施設ができていて、客はそちらに奪われてしまっているのでしょう。
創業承応2年(1653年)の戸塚酒造
この日は日曜日で開いてませんでした。
佐久といえば鯉
鯉は酢味噌で食べる「あらい」以外は食べたことがありませんが、塩焼き、鯉こく、甘露煮など色々な料理があるようです。
正直なところ、「あらい」は好んで食べることはないです。
踏切の先にモスクのようなものがありますが、佐久市子ども未来館(サクモ)という建物の様です。
モスクならぬサクモだそうです。
多数の石塔がならんでいて、立派です。
ココを今日の終着地点としました。
次回はココから右の方へスタートします。
その反対側の景色
遠くに大型商業施設と佐久平の駅が見えます。
駅のそばには大型スパ施設があり、そこで風呂を浴び、食事をして帰京しました。
次は、いよいよ最大の難所ではないかと思われる和田峠越えがあります。
暖かくなった時期に走ろうと思います。
(終わり)
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