お片づけは続いていますが、ちょっとくたびれてきました。
ゴミ袋の山が一つひとつ減っていくのは、実にせいせいしていい気分で、
ああ、捨てるって楽しい!
と思い始めています。でもね、
やっぱり、疲れるのよ。
捨てるって、ものすごく労力のいる仕事です。
こんなこと二度はしたくない。
だからこそ、一気に、短期に、完璧にやらないといけない。それはもう絶対にそうです。
それでも、自分が一体どれだけのモノを持っているのか、ということが次第に明らかになってきつつあります。
こんな狭い家の中でよくもまあ、こんなに不要なモノを後生大事にとっておいたもんだ。
たとえば、キッチン用品でいうと、包丁が四本(どれも使い勝手がイマイチ)、ゴムベラが3本、大根すりおろし器が2個、フライ返しが2本、ポテトマッシャー2本、予備のスポンジが6個、布巾の予備が十数枚、プラスティックのスプーン、フォークセット多数、割り箸に至っては数十本・・
クローゼットの中には、衣類の他に、昔結婚式の引き出物を包んであった風呂敷が多数(風呂敷って便利なので使うかもと思ってとっておいた)、いただき物のバンダナ数枚(似合わないけどせっかくくれたんだからととっておいた)、花柄のレースのハンカチ多数(一度も使ってない)、使ってないベルト数本(なぜあるのか不思議)、防虫剤代わりに入れておいた石鹸(匂い消えてる)、古い防虫剤もまだ残ってたりして・・こうしたものがタンスの引き出し及びクローゼットの隅っこに暗く潜んで闇を形成していたのですね。
父のこと、笑えない。
考えてみれば、動物は何も持たないで生きています。それでも生きていけるように神さまがお創りになった。
人間だって同じはず。
最小限のモノで生きてみようと試みだしたミニマリストたちは、どこか野生の感性を持っている気がします。
前回、「散らかすという行為は、問題の本質から目をそらすための人間の防衛本能です」というこんまりさんの言葉を引用しましたが、
ふと、また父のことを思い出しました。
父が心臓バイパス手術をしたとき、執刀医が手術の途中で私にこう言いました。
「とにかく心臓のまわりの脂肪がものすごくて、こんなに脂肪をため込んだ人は見たことがない。脂肪が邪魔で心臓にまで届かないんです・・」
父の心臓手術は十時間以上もかかり、かなり危険な状態だと告げられました。
それを聞いたとき、私は、分厚い脂肪で心臓を包み込み、自分を必死で守ろうとしている父の姿を思い浮かべました。小さな男の子である父の姿を。
父はそうやって必死で自分を守ろうとしていた、でも、一体何から?
父は無事生還し、それから十年あまりを生き延びました(母はすでに他界していた)。
そして、父が逝った後、ようやく私は、両親があの500万円で海外旅行をしまくっていたことを知ったのでした。
押し入れの奥から出てきたのは、夥しい数の海外旅行のアルバム。フランス、イタリア、スペイン、イギリスなどヨーロッパ各国、そしてアメリカ、中国は2回も行っていたようです。
怒髪天を衝く怒り!
私は悔しさのあまりボロボロ泣きながら、両親の海外旅行のアルバムをビリビリと破り捨てたのでした。
更に不思議なことは、
家じゅうに夥しいモノがあふれ、四か所ある押し入れは天袋までモノがぎっしり詰めこまれていたにも関わらず、私や孫たちの写真は母のタンスの引き出しの奥にまるで隠すようにしまってあった数枚のみ。孫の写真ですら赤ん坊の頃の写真が2~3枚あるのみでした。
しかも、父の誕生日やクリスマスに私が贈った贈り物は、どこを探しても何一つ(カード一枚)見つからなかった。どうやら全部捨てたようです。
私の両親とは、一体どういう人たちだったのだろう・・
(続く)