本屋で片付け本を見ていたら、こんな一行が目に留まりました。
「過去にこだわる人は片付けができない」
ドキッとして、たしかになあ・・と思いました。
こんまりさんも「片づけ」とは過去に片をつけることだ、と言っています。
「(片づけをして過去に片をつけた結果)人生で何が必要で何がいらないか、何をやるべきで何をやめるべきかがはっきりとわかるようになるのです」
(「人生がときめく片づけの魔法」)
そして、
「片づけをすることによって、過去の傷を癒すことができたり、これからの自分の人生、未来について前向きに考えるようになります」
(Netflix「KonMari~人生がときめく片づけの魔法(1-4)」)
過去の傷を癒し、未来について前向きに考えるためには、やはり一度過去を見つめ直す必要があるようです。
そのためにも、こんまり流の「一気に、短期に、完璧に」片づけるメソッドはたしかに有効だと思います。
一度どっぷりと過去に浸り、短期にそこから抜け出し、二度とそこへ戻らない。
ただ、残念ながら、これを実践するには、ある程度まとまった時間とスペースが必要です。
我家の場合、洋服ではそれができたのでクローゼットや箪笥はかなりガラガラになりました。
でも、本は大量にあり重たいので一か所に集められず、本棚ごとの整理しかできていません。いずれまた徹底的にやるつもりでいますが。
あと、今は書類の整理に難航しています。
何しろ紙類がやたら多い。
家電の取説書に保証書、確定申告の書類、医療系の書類、日本語のプリント類、それに、過去の作品原稿やらボツ原稿、エッセイの会の原稿(メンバー全員分)、「天気輪」の頃の原稿、「ないない島」に載せきれなかった詩の原稿やら草稿、子どもたちの絵やノート類、私自身の昔のノート類・・
それらが大量に残っています。
過去に片をつけるためには、どうしたってこれらに片をつける必要がありそうです。
今年の初めに電子書籍としてアマゾンからキンドル本を数冊出しましたが(2020年5月16日、22日 、26日の記事参照)、電子書籍化したい原稿はまだたくさんあります(手間がかかるので中断してそれきりになっている)。
でも、考えてみれば、これらはやっぱり過去の遺物。後世に残せるほど価値があるかといえば、残念ながら答えはNO。売れない、というのはそういうことなのでしょう。
ならばいっそのこと、過去に片をつけて、一気に短期に完璧に終わらせるべきなのではないでしょうか。
それができないというのは、やはり自分への執着があるから。
過去の原稿は前に進むための布石にはならないとわかっているのに、捨てられない。認められなかったボツ原稿にこだわっている。
よく頑張ったね、と自分をねぎらい、過去に片をつける必要があるのに、まだ逡巡している自分がいて厄介です。
というのも、この先まだ作品が書けるだろうかと、心もとない、おぼつかない、不確かな気分でいるからです。
結局のところ、この歳になってもまだ、自分とは何者なのか、わからないでいる。
だから、過去の遺物を引っ張り出しては、ああでもない、こうでもないとためつすがめつ眺めているのです。
なんか、みっともないよね。
自分で作ったものは大なり小なり「ときめく」ものなので容易には捨てられない。でも、それを後生大事に取っておいてどうする、大量の紙屑を残された家族の身にもなってみい、とも思う。
自分を知る、というのはヨガの教えでもあります。
この夏以来、毎朝瞑想を続けていて、徐々に瞑想の心地よさを感じ始めています。10分くらいかなと思うと30分が経過していたりする。瞑想は楽しい日課です。
でも、もしかすると、片づけにしろ、瞑想にしろ、自分流でやっているのがいけないのかもしれない。これまでもずっと何でも一人でやってきたので、それが習慣になっていますが、それではいけないのかもしれない。
こんまりさんのような、ヨガのグルのような人が必要なのかもしれない・・
でも、どうやって見つければいいのか全然わからないでいます。
一度評判のいいヨガ教室を当たってみましたが、残念なことにコロナで休室中でした。
必要な時に必要なことが起きる、というのがシンクロニシティの基本で、それが起き始めたらしめたもの。
もうちょっと待ってみようかしら、でも、待っているだけではダメかも・・
逡巡している日々です。