20日(土)に、内房の袖ヶ浦まで出かけて、郷土博物館で展示されている<房総と熊野>展を見てきた。もとより、黒潮に乗って、紀州の人たちが房総に押し寄せ、房総の地に鰹節作り、醤油作り、網をつかった業法などを伝えたことはわかっていたが、今回の展示は熊野信仰という切り口で紀州と房総をつないでみせた。日本に鉄道ができるまで、海の道が重要であった。
午後には、市民会館でシンポジウムが行なわれ、熊野信仰に関しては、紀州から房総を経て、さらに東北へと繋がる黒潮ルートを、今回の展示会を切り盛りした学芸員(桐村久美子さん)が指摘されていた。
そのときふと思ったが、いまでも銚子に海女がいて岩牡蠣をとっているが、それなども、黒潮ルートで、遠く朝鮮の済州島から伝わってきた漁法なのだろう。ちなみに、和歌森太郎が羽原又吉の『日本古代漁業経済史』を引用しながら指摘しているように(宮本常一『なつかしい話 歴史と風土の民俗学』河出書房新社、2007年)、日本の漁法には、潜水漁業と、銛などで魚を突く突漁の二種類あるらしく、前者は済州島が起源だという。
これまで、銚子の名物である醤油や漁業のルーツとして紀州が考えられていたが、さらに遠く朝鮮半島の影響を考える必要があるように思われる。
午後には、市民会館でシンポジウムが行なわれ、熊野信仰に関しては、紀州から房総を経て、さらに東北へと繋がる黒潮ルートを、今回の展示会を切り盛りした学芸員(桐村久美子さん)が指摘されていた。
そのときふと思ったが、いまでも銚子に海女がいて岩牡蠣をとっているが、それなども、黒潮ルートで、遠く朝鮮の済州島から伝わってきた漁法なのだろう。ちなみに、和歌森太郎が羽原又吉の『日本古代漁業経済史』を引用しながら指摘しているように(宮本常一『なつかしい話 歴史と風土の民俗学』河出書房新社、2007年)、日本の漁法には、潜水漁業と、銛などで魚を突く突漁の二種類あるらしく、前者は済州島が起源だという。
これまで、銚子の名物である醤油や漁業のルーツとして紀州が考えられていたが、さらに遠く朝鮮半島の影響を考える必要があるように思われる。