越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

鰐と文学全集

2007年10月30日 | 小説
鰐と文学全集 
越川芳明 

いかに歴史が浅いとはいえ、アメリカ文学にも古典(大家、大物と持ち上げ方はいろいろあるが)と呼ばれる作家や詩人はいる。だから、たとえば、ノースウェスタン大学出版の『メルヴィル全集』とか、フィンカ・ビヒア版の『ヘミングウェイ全短編集』など、しかるべき編者が校閲した立派なハードカヴァーの全集もいろいろ出ている。

しかし、日本で現代アメリカ文学、それも戦後作家の研究というか、その真似事みたいなことをしていると、海の向こうで刊行されたそうした全集に触れる機会はそう多くない。せいぜい執筆の必要に駆られて、つまみ食いするぐらいで--

ふと、わが書斎を見まわしてみると、昔ニューヨークを初め、各都市の書店や古本屋で買いあさった現代作家のペーパーバックが山積みだ。まるで地震がおこればひとたまりもないディスカウントショップのように、床から天井まで本が棚にぎゅう詰めになっている。だが、めざとい消費者のように、目を凝らしてみると、格安商品ばかりの中に、箱に入った(つまり高級そうな)作家全集がずらっと並んでいるではないか。新潮社版『ドストエフスキー全集』全二七巻だ。

この作家の全集としては、ほかに米川正夫の個人訳(河出書房新社)や、小沼文彦個人訳(筑摩書房)があるようだが、この新潮社版は江川卓を初めとする、十一人の訳者による分担制だ。僕は個人的に小沼文彦の訳が好きで、『罪と罰』は小沼訳で読んでいたのに、ほとんど例外的ともいうべき全集の購入には新潮社版を選んでいる。新潮社は二七巻もの全集を七〇年代の後半の二年間で一気に発売していて、僕の購入はものの弾みというしかない。

その頃、僕は大学院生で、ジョン・バースというアメリカ作家に凝っていた。バースは、ブラックユーモアをまぶした偽史小説(歴史改変小説とも呼ばれる)を得意にしていた。新潮社版『ドストエフスキー全集』の中の第6巻に「鰐」という短編小説が原卓也訳で載っていて、これがバースみたいにブラックユーモアの炸裂した、抜群に面白い寓話だった。

舞台は、十九世紀の半ば、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルク。語り手は、窓際族と思われる独身の役人で、街で見せ物になっている鰐に呑み込まれた同僚の顛末を語る。怪物に人間が呑み込まれる物語といえば、すぐにクジラに呑み込まれる聖書のヨナの物語を思い出すが、こちらのヨナは、自らの囚われの身を逆手にとって、「鰐の中からだと、なんだか何もかもがよく見えるみたい」だとのたまい、一躍名士になる夢を見るだけでなく、人類の真理に関する空疎な講釈をあれこれ垂れもする。

ドストエフスキーが黒い笑いのターゲットにするのは、ヨーロッパに対するロシア人の田舎者コンプレックス、社会主義や外国資本導入を論じる進歩主義者のおごり、同僚の失態を喜ぶ役人根性、硬直した官僚制度などだが、語り手の屁理屈や詭弁すらもその例外ではない。

というのも、語り手の役人は職場の先輩に相談にいき、鰐に呑み込まれた同僚が「職務中」と見なされる方法はないか、「出張」という形で俸給を出してもらえないだろうか、と訊くのだから。職場の先輩が「どんな出張で、どこへ?」と質問する。すると--
 
「腹の中へ、鰐の腹の中へです・・・言うなれば、調査のため、現地での事実研究のためにです・・・」

そんなわけで、文学全集というと、僕はただちにこの鰐の物語を思いだす。フロリダのオキチョビー湖に生息しているアリゲーターや、コスタ・リカの熱帯雨林のカイマンとちがって、この鰐は寒冷地ロシアに連れてこられた、いわば難民化した鰐だ。しかし、そんな「難民」も、そもそもドイツ人母子によってロシアに持ち込まれた商売道具(海外資本)であり、官僚制や階級制に守られて生きている帝政ロシアの小役人はみずから「外国資本」に食われながら、愚かにもそのことを好ましくさえ思っている。

ドストエフスキーの笑いは、一九世紀の帝政ロシアだけでなく、まるでソ連の崩壊以降の今にも波及するパワーを備えていまいか。(『図書新聞』2007年11月3日) 
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