「北」をめざす旅に隠された、もう一つの旅
キャリー・ジョージ・フクナガ監督『闇の列車、光の旅』
越川芳明
私たちはさまざまな理由で旅に出るが、旅は私たちに何を教えるのだろうか。
この映画で扱われるのは移民の旅であり、経済的な動機がその根底にある。高度成長期の日本でも、地方から大都市へ「集団就職」という形で、一種の「移民」的移動が見られたが、目を世界に転じれば、仕事と金をもとめて、地方から大都市へ、第三世界から第一世界へ、旧植民地から元宗主国へ、発展途上国から先進国へと、経済格差によって生み出される移民の旅が見られる。
本作では、二種類の旅が描かれている。一つは、まるで蛇がのたくるようにくねくねとした線をなして北上する、水平の、空間の旅。もう一つは、自らの生の意味を主体的に獲得して、まるでダンテの『神曲』のように光の見えない地下世界から天上的な世界へと一気に駆けのぼる形而上学的な、垂直的な旅。この二つの旅を交錯させることで、本作は「北」へ向かう旅を描いたありきたりなロードムーヴィになるのを回避している。
前者の旅は、メキシコよりさらに南のホンジュラスから始まる。主人公の一人、少女サイラが首都テグシガルパから、「北」のアメリカ合衆国をめざす。父親がアメリカから強制送還され、もう一度不法入国を試みようとして、娘サイラと弟のオルランドを誘うが、サイラにはさしたる動機がない。自分の住むホンジュラスのスラムには何もない、という消極的な理由以外には。ニュージャージーにいる父の家族は、父がサイラの母以外の女性と一緒に築いたもので、サイラの身内ではない。だから、父の見せてくれる写真に、何の感慨も浮かばない。
後者の旅は、もう一人の主人公、カスペル(本名ウリィ)によってなされる。彼はメキシコ最南のチアパス州タパチュラに住み、「マラ・サルバトゥルチャ13」というギャング組織に属している。不法移民の乗る貨物に、強盗を働くために乗り込むが、ふとしたことからリーダーの男リルマゴを殺してしまう。彼には組織に内緒で付き合っていた恋人マルタがいたが、彼女をリーダーによって殺されている。戒律を重んじる組織に逆らったことで、ウリィの逃亡の旅が始まる。
この映画は、巧みなモンタージュによって、視線の違いによって、旅の意味の違いを知らしめる。サイラとウリィが一緒に貨物列車の屋根にすわって、通り過ぎる光景を眺める短いショットがある。二人は進行方向に向かって横向きにすわり、荒野を見つめる。これは「北」への旅をできるかぎり先延ばししたい、二人の思いを暗示している。二人にとって、「北」への衝動はそれほど強くない。むしろ、「信頼」とか「生の証し」を見いだすことの方が重要である。そのショットの直後に、その二人を心配そうに見つめるサイラの父と叔父の視線のショットがつづく。彼らは列車の進行方向を向いており、それはできるかぎり「北」への旅を突き進めたい彼らの衝動を暗示している。
冒頭のショットを思い出してみよう。まるで人工的に着色されたかのような、紅葉に彩られた幻想的な風景が出てきて、それを見ているのがMSのタトゥーを背中に彫ったウリィであった。その光景をウリィは一人ではなく、列車の屋根からサイラと一緒に見ていたのだ。ウリィが暴行されそうになったサイラを助けた後、サイラも移民に殺されそうになったウリィを機転を利かせて救い、二人が同じ屋根の上にすわって眺めた一見平凡そうな光景だった。ウリィは愛するマルタを殺され、生きるあてを失っており、一方、サイラも未来に対する不安を抱えていた。しかし、二人の見たありきたりな光景は、運命を共有する二人、とりわけウリィの脳裏に強く刻みつけられており、それが冒頭の印象的な光景として映し出されていた。そう考えることができないだろうか。
メキシコシティをすぎる頃、かつて一緒に仕事をしたことがある女性の世話になり、国境へ逃げる手はずを整えてもらったウリィは、自動車輸送車にサイラと一緒に乗り込む。道端の壁の落書きには、「リルマゴはカスペルを逃さない」と書かれていた。
彼の旅は悲劇的だ。組織に背いた者は必ず殺されるという宿命を背負い、その宿命に逆らって、サイラの国境越えを助けるために、逃亡を試みるからだ。彼の旅は、自らの運命を知りながら、意志で運命に逆らうギリシャ悲劇の主人公のそれのように、次第に崇高さを帯びる。
それが最高潮に達するのが、最後の川越えのシーンだ。彼にとって唯一、恋人と撮った映像(記憶)だけが生きるよすがだったが、それを保存したデジタルカメラをあっさり代金代わりに渡し人に与えるのだ。このような自己犠牲の行為で、ウリィは組の仲間によって無残な運命を意味ある生へと転化することができた。
「先進国」に住む私たち日本人は、第三世界の視点で描かれたこの移民たちの映画を見て、何を学ぶのだろうか。
映画の最後に、強制送還になった叔父オルランドが再びグアテマラからメキシコへの川越えに挑むショットがつづく。このショットによって、叔父の切迫した旅への衝動が伝わってくる。
だが、なぜ「南」からアメリカへそれほどの危険を冒してまで旅するのか、この映画は深く追求していない。一見サイラの父や叔父の「北」への旅を描いたロードムーヴィの装いをみせながらも、彼らがする旅を描くことが目的ではなかったからである。
『すばる』(集英社)2010年7月号304―305頁。
キャリー・ジョージ・フクナガ監督『闇の列車、光の旅』
越川芳明
私たちはさまざまな理由で旅に出るが、旅は私たちに何を教えるのだろうか。
この映画で扱われるのは移民の旅であり、経済的な動機がその根底にある。高度成長期の日本でも、地方から大都市へ「集団就職」という形で、一種の「移民」的移動が見られたが、目を世界に転じれば、仕事と金をもとめて、地方から大都市へ、第三世界から第一世界へ、旧植民地から元宗主国へ、発展途上国から先進国へと、経済格差によって生み出される移民の旅が見られる。
本作では、二種類の旅が描かれている。一つは、まるで蛇がのたくるようにくねくねとした線をなして北上する、水平の、空間の旅。もう一つは、自らの生の意味を主体的に獲得して、まるでダンテの『神曲』のように光の見えない地下世界から天上的な世界へと一気に駆けのぼる形而上学的な、垂直的な旅。この二つの旅を交錯させることで、本作は「北」へ向かう旅を描いたありきたりなロードムーヴィになるのを回避している。
前者の旅は、メキシコよりさらに南のホンジュラスから始まる。主人公の一人、少女サイラが首都テグシガルパから、「北」のアメリカ合衆国をめざす。父親がアメリカから強制送還され、もう一度不法入国を試みようとして、娘サイラと弟のオルランドを誘うが、サイラにはさしたる動機がない。自分の住むホンジュラスのスラムには何もない、という消極的な理由以外には。ニュージャージーにいる父の家族は、父がサイラの母以外の女性と一緒に築いたもので、サイラの身内ではない。だから、父の見せてくれる写真に、何の感慨も浮かばない。
後者の旅は、もう一人の主人公、カスペル(本名ウリィ)によってなされる。彼はメキシコ最南のチアパス州タパチュラに住み、「マラ・サルバトゥルチャ13」というギャング組織に属している。不法移民の乗る貨物に、強盗を働くために乗り込むが、ふとしたことからリーダーの男リルマゴを殺してしまう。彼には組織に内緒で付き合っていた恋人マルタがいたが、彼女をリーダーによって殺されている。戒律を重んじる組織に逆らったことで、ウリィの逃亡の旅が始まる。
この映画は、巧みなモンタージュによって、視線の違いによって、旅の意味の違いを知らしめる。サイラとウリィが一緒に貨物列車の屋根にすわって、通り過ぎる光景を眺める短いショットがある。二人は進行方向に向かって横向きにすわり、荒野を見つめる。これは「北」への旅をできるかぎり先延ばししたい、二人の思いを暗示している。二人にとって、「北」への衝動はそれほど強くない。むしろ、「信頼」とか「生の証し」を見いだすことの方が重要である。そのショットの直後に、その二人を心配そうに見つめるサイラの父と叔父の視線のショットがつづく。彼らは列車の進行方向を向いており、それはできるかぎり「北」への旅を突き進めたい彼らの衝動を暗示している。
冒頭のショットを思い出してみよう。まるで人工的に着色されたかのような、紅葉に彩られた幻想的な風景が出てきて、それを見ているのがMSのタトゥーを背中に彫ったウリィであった。その光景をウリィは一人ではなく、列車の屋根からサイラと一緒に見ていたのだ。ウリィが暴行されそうになったサイラを助けた後、サイラも移民に殺されそうになったウリィを機転を利かせて救い、二人が同じ屋根の上にすわって眺めた一見平凡そうな光景だった。ウリィは愛するマルタを殺され、生きるあてを失っており、一方、サイラも未来に対する不安を抱えていた。しかし、二人の見たありきたりな光景は、運命を共有する二人、とりわけウリィの脳裏に強く刻みつけられており、それが冒頭の印象的な光景として映し出されていた。そう考えることができないだろうか。
メキシコシティをすぎる頃、かつて一緒に仕事をしたことがある女性の世話になり、国境へ逃げる手はずを整えてもらったウリィは、自動車輸送車にサイラと一緒に乗り込む。道端の壁の落書きには、「リルマゴはカスペルを逃さない」と書かれていた。
彼の旅は悲劇的だ。組織に背いた者は必ず殺されるという宿命を背負い、その宿命に逆らって、サイラの国境越えを助けるために、逃亡を試みるからだ。彼の旅は、自らの運命を知りながら、意志で運命に逆らうギリシャ悲劇の主人公のそれのように、次第に崇高さを帯びる。
それが最高潮に達するのが、最後の川越えのシーンだ。彼にとって唯一、恋人と撮った映像(記憶)だけが生きるよすがだったが、それを保存したデジタルカメラをあっさり代金代わりに渡し人に与えるのだ。このような自己犠牲の行為で、ウリィは組の仲間によって無残な運命を意味ある生へと転化することができた。
「先進国」に住む私たち日本人は、第三世界の視点で描かれたこの移民たちの映画を見て、何を学ぶのだろうか。
映画の最後に、強制送還になった叔父オルランドが再びグアテマラからメキシコへの川越えに挑むショットがつづく。このショットによって、叔父の切迫した旅への衝動が伝わってくる。
だが、なぜ「南」からアメリカへそれほどの危険を冒してまで旅するのか、この映画は深く追求していない。一見サイラの父や叔父の「北」への旅を描いたロードムーヴィの装いをみせながらも、彼らがする旅を描くことが目的ではなかったからである。
『すばる』(集英社)2010年7月号304―305頁。