越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

映画評  クラウゼ監督『パプーシャの黒い瞳』

2015年03月08日 | 映画

「詩」を書くジプシー女の物語

ーーヨアンナ・コス=クラウゼ、クシシュトフ・クラウゼ監督 『パプーシャの黒い瞳』

越川芳明 

 黒い服を着た身重の女性が、店のウィンドーに飾られた白いドレスの人形をじっと見つめている。窓ガラスに映る女性の顔は少女のように驚くほどあどけない。彼女は「パプーシャ」こと、ブロニフワヴァ・ヴァイスを産んだ母親である。「パプーシャ」とは、ロマ語で人形という意味らしい。  

 パプーシャは、長い行列をなして森から森へと移動するジプシーの一家に生まれる。生まれて間もなく、パプーシャは厄払いを受ける。祈祷師は「羽根のように軽やかに大地を歩けますように」と祈るが、「この子は恥さらしな人間になるかもしれない」と、不吉な予言をする。  

 映画は、単純な時系列的展開をしない。パプーシャの誕生(1910年)と晩年の政府による表彰(1971年)という、彼女の人生の外枠をまず設定したうえで、時間軸を行ったり来たりしながら、重要な瞬間を切り取っていく。  

 パプーシャの物語の中にポーランドの20世紀がかいま見える。中でも、注目すべき時代は次の三つだ。  まず1925年。パプーシャは十五歳のときに、父親によって結婚を強制される。夫になるのはディオニズィという名の、ジプシー楽団のリーダー。親子ほどの年の差だ。それもそのはず、ディオニズィはパプーシャの父の兄だから。二つの大戦のあいだの、一二〇年以上ぶりに三大国から「独立」したポーランドで、ジプシーの楽団は貴族の邸宅に呼ばれて金を稼ぐ。政府の出した「ジプシー追放令」にもかかわらず、貴族たちがそれを無視している姿が映し出される。  

 次に、1949年~52年。第二次大戦後、パプーシャの人生は大きな転機を迎える。子供の頃から好奇心旺盛で、ジプシーの掟にさからって、商店を営むユダヤ人女性に読み書きを教わってきた彼女。1949年にイェジ・フィツォフスキという名の男がパプーシャたちの野営地にやってきて、二年ほど寝食を共にする。男は首都ワルシャワで、ナチスドイツに対するレジスタンス運動に加わり、戦後は、社会主義国の秘密警察に抵抗して、追われているのだという。皆からは「ガジョ」と呼ばれている。ジプシーたちの言葉で「よそ者」という意味だ。この男は詩人であり、ときたまパプーシャのつぶやく言葉の中に詩を発見して、ロマ語で詩を書くことを勧める。パプーシャが紙入れに書きなぐる詩は、歌の歌詞のように素朴なものだ。  

 すべてのジプシーよ  わたしのもとへおいで  走っておいで  大きな焚き火が輝く森へ    

 ガジョは、パプーシャの言葉をポーランド語に翻訳して発表する。そして、パプーシャたちと一緒に暮らした経験をもとに、『ポーランドのジプシー』という本を出版する。活字をもたないジプシーの歴史や文化を、彼らに成り代わって書くという行為は、両刃の剣だ。パプーシャはポーランド中で有名になるが、ジプシーの秘密を売ったとして、夫と共に共同体から追放される憂き目に遭う。1952年、社会主義国のポーランドは、ジプシーの定住化政策を進める。住居を提供し、職業を斡旋し、子供の就学機会を与える。それと引き換えに彼らの移動の自由を奪う。  

 最後に、1971年。刑務所に鶏泥棒で収監されているパプーシャを女性官僚が引き取りにくる。パプーシャはコンサートホールに連れていかれて、「パプーシャのハープ」というオペラの演奏に立ち会わされる。気の進まない彼女に暴君的な大臣が列席を強要する。ジプシー詩人としてのパプーシャを顕彰することで、少数民族にも平等に機会を与えていることを宣伝し、体制内に取り込もうという「同化政策」が透けて見える。  

 運命に翻弄されるジプシー女性を扱っているとはいえ、悲しい出来事ばかりではなく、笑えるエピソードもある。ワルシャワの新聞がパプーシャを大々的に取りあげたとき、パプーシャの息子が通う校長が子供にその新聞を家に持ち帰らせる。字の読めない男たちに向かって息子がそれを読んできかせると、パプーシャの夫は、とんでもない自慢話を始める。自分たちは才能ある一家だ、と。「昔、俺はレーニンの前で演奏した。革命で疲れ果てたレーニンが演奏を聴いて小躍りして喜んだ。翌朝には執事がシャンペンを注ぎにきた。クレムリン宮殿での話だ。レーニンが言った。『貴君なしには革命はなし得ない。私の右腕としてここにいてくれ。我が偉大なる宮廷楽師よ』」と、大ぼらを吹く。仲間が「なぜ断った」と問いつめると、夫は「ピウスツキ元帥と先約があったからさ。元帥はジプシー音楽を愛したんだ」と、自慢話を締めくくる。  

 いうまでもなくレーニンは、市民革命によってロシア帝国を打倒し、社会主義国家ソ連を樹立した指導者だし、ピウスツキ元帥と言えば、第一次世界大戦をへてようやく復活した「第二次ポーランド共和国」の初代元首であり、「建国の父」と見なされる男である。だから、このほら話には、自分たちジプシーは、各地で厄介者扱いされながらも、ポーランドにもソ連にも帰属しない誇り高い遊牧民なのだ、という自覚がうかがえる。  

 ジプシーの物語は、過去のものだろうか。シリアをはじめ、中東の国境地帯でテント暮らしを余儀なくされている戦争難民や、祖国を離れて他国で暮らす経済難民など、世界にはかつてのジプシーと同様、国籍(国軍)によって守られない「見えない人々」が大勢いる。そういう意味で、もっとも現代的なグローバルな問題を提起しているのだ。(『すばる』2015年4月号、340-341ページ)

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書評 田中慎弥『宰相A』

2015年03月08日 | 書評

全体主義的国家のグロテスクな寓話ーー田中慎弥『宰相A』

越川芳明  

 「私」こと、Tが母の墓参りのためにO町を訪れる。小説家である「私」は、最近ネタが尽きており、約30年ぶりの墓参りを切っ掛けに浮上をはかろうという魂胆だ。  

  だが、「私」がOの駅に到着したとたんに、物語は一転して、パラレルワールドの世界に突入する。「私」が迷い込む世界は、もう一つの「日本」だ。  

  「私」が迷い込んだもう一つの「日本」は、先の大戦後に、アングロサクソン系のアメリカ人が占拠して、そのまま「日本国」を継承。公用語として自分たちの言語である英語を採用。それまで日本人だった者(モンゴロイド系)は、「旧日本人/先住民」として特別なゲットー(居住区)に押し込められたという。  

  このもう一つの「日本」の特徴は、次の三つだ。一つ目は、アングロサクソン系の日本人は皆、緑色の制服を着ている。「制服/軍服」の着用は、「日本人」の重要な義務の一つである。  

  制服と私服の対立がこの小説に、「善」と「悪」をめぐる二元論的思考という変奏を加える。三島由紀夫の自害(一九七〇年)と映画『ゴッドファーザー』(一九七二年)が小説の中で何度も言及されるが、三島の場合は、私服を捨てて軍服に着替えた例(軍人)として、『ゴッドファーザー』のマイケル(アル・パチーノ)は、逆に軍服を捨てて私服に着替えた者(マフィア)として好対照をなす。軍服による殺人は、「戦争」という大義ゆえに許容され、ときに「武勲」として称えられるが、私服での殺人は、マイケルの場合のように、悪辣な「犯罪」と見なされる。同じ殺人なのに、倫理的な観点からすると、その違いはどこにあるのか、とこの寓話は問う。  

  二つ目の特徴は、「民主主義」を政体の根幹に据えておきながら、このもう一つの「日本」のやっていることは、全体主義的な独裁である。個人の自由は許されず、芸術家や小説家も国家のための道具にすぎない。国家と関わりのない表現は「反民主主義」的な行為と見なされる。「旧日本人」でも、新生「日本」に忠誠と貢献を誓えば、「日本人」になることができる。その代表的な例が、この小説のタイトルにもなっている「宰相A」である。「日本」を作り出したアングロサクソン系の者たちは、国民の三分の二以上をなす「旧日本人」の反乱を怖れ、政府のトップに「旧日本人」のAを据えたのだ。もちろん、「宰相A」は傀儡(ルビ:かいらい)にすぎない。  

  三つ目は、アメリカと同盟を結んで、「平和のための戦争」をくり返す「好戦性」だ。「宰相A」は、「戦争こそ平和の何よりの基盤」とか、「戦争は平和の偉大なる母」とか、詭弁を弄する。そうした詭弁は、理解不能なまでにねじ曲げられて「宰相A」の所信表明となる。すなわち、「最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります」と。

  思えば、メイフラワー号に乗った清教徒(ルビ:ピューリタン)たちの「新大陸」への到来以来、アメリカは内外に敵を作りあげ、たえず戦争を仕掛けることで生き延びてきた国家である。ニューイングランドにいた先住民の虐殺を手始めに、イギリス、スペインなどのヨーロッパ勢に挑み、19世紀半ばにはメキシコを、冷戦時代にはソ連と東欧を、現代ではイスラム国を相手に・・・。国内でも、17世紀末に清教徒たちは「魔女狩り」に熱をあげる。その後、国内の黒人(奴隷制)、中国人(1882年の中国人排斥法)や日本人(1924年の排日移民法)をやり玉にあげ、1950年代初頭には「赤狩り」というもう一つの「魔女狩り」が生まれる。清教徒の「血」の中に、「浄化する(ピューリファイ)」というDNAがある限り、「異物」を排除しようとする欲望は消えない。  

  というわけで、登場人物の「宰相A」は、自身の英語へのコンプレックスゆえに小学生から英語を習わせようとしたり、国民の命や暮らしを守るために、憲法第9条を見直して、安全保障法制の整備をする、などと述べたりしている、どこかの首相(これもなぜかAだ)を容易に思い出させる。だから、これは現在の日本にまっすぐつながる怖くてグロテスクな「寓話」なのだ。  (『波』2015年3月号)

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書評 柴崎友香『パノララ』

2015年03月08日 | 書評

バランスの悪い家族ーー 柴崎友香『パノララ』

 越川芳明  

 柴崎友香の芥川賞受賞作『春の庭』には、東京・世田谷の洋館が出てくる。かつて写真集になったこともあるというその水色の建物を、近所の古い賃貸アパートに住む主人公は「バランスが悪い」家だと感じる。「一見すると趣と歳月を感じる建物なのだが、しばらく眺めていると、屋根と壁とステンドグラスと塀と門と窓と、それぞれが別のところから寄せ集めたように見えてきた」

 本作『パノララ』にも、「バランスが悪い」家が登場する。いや、「バランスの悪さ」では、ずっと過激かもしれない。路地の奥まったところにあるそれは、三種類の構造物からなり、一つはコンクリートの三階建て、そのそばに黄色い木造二階建て、さらにそのそばには、赤い小屋が乗った鉄骨のガレージが、まるでそのつど思いつきで継ぎはぎされたみたいにつながっている。

 「それぞれの一階と二階がずれているし、壁が重なっているところも隙間があいているところもある。ブロックで遊んでいて同じ種類のが足りないから別の積み木で継ぎ足した、という感じ」 

 よく「名は体を表わす」というが、この場合は、「家は人を表わす」というべきか。というのも、「下北沢」という街をモデルにしたとおぼしき「S駅」から徒歩十五分の、この怪獣キメラみたいなへんてこな家には、「寄せ集め」みたいな家族が住んでいるからだ。  

 住人は父母と三人の子供(といっても、皆もう成人だ)。父・木村将春(ルビ:まさはる)は、小さな建設会社「木村興業」の社長、母・志乃田みすず(本名は正子)はベテラン女優。子供は上から文(ルビ:ふみ)、イチロー(壱千郎)、絵波で、母親がみすずであるのは同じだが、父親は三人とも違う。イチローの父は将春、文の父はみすずが将春と会う前に不倫関係を結んだらしい著名な演出家、絵波の父はイチローが四歳のときにみすずが家出して、一年ほど一緒に失踪していた男(正体不明)といった具合に。  

 いうまでもなく、この小説のテーマは、「家族とは何か」である。  

 語り手の「わたし」こと田中真紀子は、いま二十八歳で、関西から東京に出てきて六年になるという。小さな広告企画会社に勤めているが、不安定な非正規雇用者だ。だが、彼女にとって、もっと深刻なのは「過干渉」の母親の存在だ。  真紀子の母親は、ひとり娘のためによかれと思って、着るものから食事、就職、習い事と、なにごとにも口を挟む。その一方で、自分が聞きたくない娘の意見には、無反応を決め込む。娘は、一方的な母親の押しつけを優等生的に聞き入れることで、ストレスや不安を内に溜め込む。そうやってずるずると生きていると、いつまでも自立ができないし、主体的な選択もできない。  

 つねに相手の言動を気にして、頭の中で自分の言葉を反芻しているうちに、会話が終わってしまう。真紀子の優柔不断な態度が、この小説の自意識過剰な語りの文体に反映している。  

 たとえば、会社の中で、先輩にあたるかよ子さんに対して反論したくなったときも、「神経質とは言ってないしちょっと違うんじゃないかなと思ったが、うまく説明できそうになかったし、説明することをかよ子さんが望んでいないかもしれないから、言わなかった」

 万事、こんな具合なのである。真紀子は母だけでなく、他人に対しても積極的に態度を表明しないし、喜怒哀楽を表に出さない(出せない)。  

 物語は、真紀子がアパートの更新料が払えなくなり、さほど親しいわけでもないイチローの好意により、木村家の一室(ガレージの上に乗っかった赤い小屋)を安く貸してもらうことから始まる。  

 彼女は木村家というとんでもない「異世界」に入り込み、そこの住人との交流を通じて、徐々に自立する手だてを学ぶ。確かに、実家の父母とは違って、こちらの父・将春は冬でも暑いと言ってリビングで全裸になってしまうし、母・みすずはロケ撮影や舞台を理由に、まったく家に寄り付かない。天真爛漫というか、無頓着で気のおけない人たちだ。  

 一方、子供たちにしても、真紀子より二歳年上の文は、中学時代に自傷行為に走ったことがあるらしく、また、大学を出て入った会社も上司によるセクハラで辞めてしまい、その後、ほとんど家にいることになり、そのことに後ろめたさを感じているようだ。そのせいか、家族のために料理だけは力をこめて作る。そのくせ、料理を作った後は皆と一緒に食べずに、自室に閉じこもってしまう。真紀子はそんな文に親近感を持っているが、大学生の絵波は文とほとんど口をきかない。それどころか、文について「不幸顔しちゃって」と、嫌味なことばかり言う。イチローを除いて、木村家の住人はみな相当に「濃い」キャラクターばかりだ。  

 この小説の白眉は、木村家で暮らし始めてちょうど一年たったある土曜日、悪夢的な出来事がつづくその一日を、ちょうどドラッグでバッドトリップしたみたいに、真紀子が何度もくり返し経験してしまう、最後のほうの数十ページだろう。その日は、母が薬の過剰摂取をして、救急車で病院に運ばれたとの連絡が父からあり、病院に向かうために、S駅のホームで電車を待っていると、送りにきてくれていた絵波が彼女を逆恨みした若者によって線路に落とされてしまう。真紀子は、そんな同じ一日が繰り返し襲ってくるあいだ、そこから抜け出したいと思っているが、なかなか抜け出せない。  

 それは、真紀子にとっての「通過儀礼」というか、自立のための真の成人式なのかもしれない。木村家は、その「バランスの悪さ」によって真紀子を救う。「バランスの悪さ」というのは、逆にいえば不定形ということであり、フレクシブルに姿を変えられるということである。真紀子が実家からもどってくる(文は金沢へ引っ越しする)ことによって、木村の家族もキメラのごとく形を変えるのだろう。これが「正しい」という家族の形など、初めからないのである。そんなことを考えさせてくれる、バランスのいい小説だった。 (『文学界』2015年3月号)

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書評 尾崎俊介『ホールデンの肖像』(新宿書房)

2015年03月08日 | 書評

「大衆文学読み解く眼力」ーー尾崎俊介『ホールデンの肖像 ペーパーバックからみるアメリカの読書文化』(新宿書房)

 越川芳明

 「ジャケット買い」と言えば、かつて音楽がレコードの形で売られていた時代に、カヴァージャケットの格好いいデザインや絵を見て、中身を聞かずに買うことを意味した。  

 著者はアメリカのペーパーバック(廉価版の紙表紙本)を「ジャケット買い」する収集癖があるようだ。そうした収集の合間に、『紙表紙の誘惑』という優れた研究書を上梓してしまった。  

 通常、学問の大道をゆく学者たちが目を向けたりしない、一見軽薄に見える分野(物語がワンパターンの「ハーレクィン・ロマンス」のような「大衆文学」)の歴史を丹念にひもとき、文学研究の盲点を突く。  

 本書には、大きく三つの柱がある。

 一、ペーパーバック(廉価版の紙表紙本)の出版史、二、イギリスから始まる「ロマンス」史、三、ブッククラブの歴史。  

 課題へのアプローチの仕方において立派な学者の本だが、それを記述するさいの視点は「上から目線」ではない。たとえば、専門家でない読者に向けて、ページの最下段に丁寧な脚注が付されていて、しかも文章がウィットに富んでいる。隅々まで気配りが効いているのだ。  

 どの論文やエッセイをとっても、謎解きのように話が展開する。中でも、本のタイトルにもなっている「ホールデンの肖像」というエッセイは、読み応えがある。ペーパーバック版の表紙に描かれた絵めぐる、人気作家サリンジャーと出版社の攻防を論じたものだが、この作家のこだわり(悪く言えば、変質者ぶり)がよくわかる。その他にも、「ハーレクィン・ロマンス」とフェミニズムとの戦いの歴史を丁寧に跡づけたエッセイや、テレビ番組「オプラ・ブッククラブ」に象徴される、文学を商売に変えるアメリカ的な「錬金術」を論じるものなど、まさに目から鱗が落ちるものばかり。  

 優れた著述家になくてはならない鋭い観察力や、借り物ではない知識がどのエッセイにもにじみ出ている。乾いた喉をうるおすグラス一杯の冷水のように、読後感が心地よい。 (『北海道新聞』2014年1月11日)

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