越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

ロベルト・コッシーのサッカー部長日記(30)

2015年10月30日 | サッカー部長日記

10月25日(日)  

朝から、からっ風が吹きまくる。今年のからっ風1号とのこと。  

茨城県古河市サッカー場。風は手前から奥のほうへ吹いているが、ときおり向きが変わり、やっている選手は大変だ。ピッチもでこぼこで、ボールがイレギュラーに動く。  

明治はこのグランドとの相性がよく、去年は2回ここでやって2回とも勝利している。はてして、きょうは・・・?  

きょうの相手は、ライバル校の流通経済大学。つねに接戦になる。今年は、前期に一度やって1-1で引き分けている。8月の総理大臣杯の準決勝では、やはり1-1で、PK戦にもつれ込み辛うじて勝利している。 

さて、前半は明治ペースで進み、26分に正面でボールをもった差波優人(商4)がドリブルからDFの裏をとった和泉竜司(政経4)と藤本佳希(文4)にパス。和泉はダミーのかたちになり、藤本がボールを受けて、相手選手にユニフォームを引っ張られながらも、右足を振り切りシュート。それがうまくゴールネットを揺らし、待望の先取点をゲット。  

その後35分にも、うまく裏をとった和泉がキーパーをかわして、もう少しでシュートという瞬間があったが、流経大ディフェンスの必死のスライディングでボールをはじき、惜しくもゴールはならず。  

流経大も明治サイドに押し込んでは何度もコーナーキックを奪い、風を利してゴールを狙うが、明大は必死のクリアでゴールラインを割らせない。  

ハーフタイムでは、三浦ヘッドコーチから相手の長所を消して、自分たちの長所を出すプレーに専念するよう指示がくだる。栗田監督からは、ピッチコンディションの悪さ、風による不可抗力を考慮して、やすやすとセンタリングをあげさせないよう、出所を押さえておくよう、指示がある。  

しかし後半は流経大のペース。一刻も早く同点に追いつきたい流経大は、前かかりになり攻めてくる。後半12分、22分、35分に次々と選手を交替させて、挽回をはかる。後半18分と21分に表面やや左からのFKを得るが、明治はそれに耐える。  

山越康平(法4)や小出悠太(政経3)をはじめとするDF陣のがんばりが90分間つづき、全員守備の鉄則を守り、流経大の攻撃を抑えきり1-0で勝利。得点こそ少なかったが、非常に見応えのある試合だった。  

この試合のMVPには前節につづき、藤本が選ばれた。このところ藤本は絶好調でようやく今シーズン2桁得点に到達。つぎの中大戦では、複数得点を期待したい。  

試合の実況:明大スポーツhttp://www.meispo.net/news.php?news_id=9032

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行(16)年末は、アフロの儀式の連続

2015年10月30日 | キューバ紀行

(写真)ボベダ・エスピルアル(聖水のコップ)

年末は、アフロの儀式の連続

  キューバのハバナに来てまだ2週間だが、年末は儀式がそこかしこで行なわれている。

 儀式といっても、キリスト教みたいにどこか決まった教会や礼拝堂でやるわけではない。民家の中でプライベートにおこなうので、つてがないと入れない。

 私が泊まっているのは、ニューヨーク・シティのロア・イースト・サイドみたいに、道路はごみだらけで人でごった返すハバナの下町。

 私のために「オルーラの手」という入門式をおこなってくれた司祭(ババラォ)は、二十歳ちかく年下だが、私の「パドリーノ(代理父)」である。

 そのパドリーノのパートナー(妻というと語弊がある。正式な結婚をしていないからだ)が民宿を経営して、そこが私の定宿になっている。

 だから、まるで私塾に寝泊まりしているようなもので、分からないところがあれば、すぐに師匠に訊くことができる。家で儀式があるときは身近で見ることができる。

 夜遅くハバナに到着した日に予約もなしに訪ねていき、泊めてもらった。お土産アディダスのスニーカーを渡して談笑していると、師匠が言った。

 「あさって、入門式がある。三日目のイファ占いだけど」

 ということは、きょう動物の生贄の儀式をおこなっていたわけだ。何を屠ったのか訊くと−−−−

 「雄鶏を8羽」という返事だった。

 12月4日(土)が聖女バルバラの祝日であることもあり、その週末には行事が相ついだ。

 カトリック教会の聖女バルバラはアフリカの小さな神様(オリチャ)の一人で、雷・火・太鼓などを司る「チャンゴ」と習合している。守護霊が「チャンゴ」である師匠の腹違いの妹の家で、夜遅くまでチャンゴに捧げるフィエスタがあった。

 そこは対岸の街レグラやカサブランカへ向かうフェリの渡しがあるハバナ湾のちかくにある集合住宅。それは、黒木和夫監督の映画『キューバの恋人』(1969年)の中で、若いハンサムボーイの津川雅彦がハバナの街で引っかけた(と思った)女性を訪ねていくアパートによく似ていた。四階にある部屋の入口に立っていると、満艦飾の洗濯物が干してある中央の吹き抜けの部分を、テレビの音や、誰かが人を呼ぶ声などにまじって、どこか下のほうの部屋で行なわれている太鼓(タンボール)の儀式の音や歌声が、まるで火山の噴火のように勢いよく下から突きあげてくる。

 実は、夕方、その近所でチャンゴに捧げる太鼓儀式があった。くだんの家に行ってみると、演奏はバタと呼ばれるサンテリアの太鼓ではなく、箱型の打楽器カホンと、ギラと鉦だった。キューバ東部のやり方だという。

 玄関から入った突きあたりの壁に、死者の霊に捧げる聖水「ボベダ・エスピツアル」が飾られていた。小さなテーブルの奥の方に、赤い服をまとった黒人人形が鎮座しており、葉巻が添えられている。面白いのは、宗教的な混淆をしめすかのように、中央の聖水の入ったコップの中には、磔のイエスの十字架が入っている。その他のコップにはバラの花が入っていた。中央の大きな花瓶には、薄いピンク色のグラジオラス、花弁の小さなひまわり、香りのよい白い花アスセナ、緑色のアルバカ、紅色のバラなど、色とりどりの花が飾られていた。壁に飾られたアレカと呼ばれる扇状の葉や、セドルの小枝と葉が鮮やかな緑の森を演出していた。彼らは都会の狭苦しい部屋を広大な緑の野原や森に変える創意工夫の名人である。

 翌日の夕方には「死者の霊に捧げるカホン」という憑依儀式があり、カホンや鉦の音、ラム酒や葉巻に誘発されて、神がかりになる人が続出した。

 儀式の最後のほうで、儀式をとりしきっていた司祭(サンテロ)自身が死者の霊に取り憑かれて、いきなり私を中央に引きずりだして、皆が取り囲むなかで、私のめがねを乱暴にはずし、死者の霊の口伝をほどこした。

 死者の霊が私に対して、現在の仕事のほかにもう一つ仕事をやっているのか、と訊く。私が小さい声でやっていると応じると、現在か将来においてそうとう金が儲かるという、うれしいお告げだった。そのためにも、亡くなった祖父のために、花やろうそくや線香を捧げる必要がある、と司祭は付け加えた。

 翌日には、私が泊まっている民宿の居間で、ある女性の依頼で、師匠が女性の娘の守護霊であるオチュン(愛や出産や黄金を司る神様)に動物の血を捧げる儀式をおこなった。女性の娘はスペインに住んでいるので、母親が代わりに依頼にきたのだ。師匠の若い息子も司祭として参加して、彼らは部屋の一角にゴザを敷き、イファの占いをおこなってから、雄鶏3羽と雌鳥1羽を生贄にした。それらの血をオチュン(黄色い容器)に捧げ、その後、その上に大皿を乗せ、カカリヤと呼ばれる白い石灰粉をまぶしたパンを添え、ろうそくを灯して1週間ほどオチュンに祈りを捧げるのである。

 その日の夕方には、小1時間ほどバスに揺られてマリアナオ地区に行き、やはり守護霊がオチュンである若い女性のために、ごみで汚れた川のそばで雌鳥の血をオチュンに捧げる儀式をおこなった。生贄にした雌鳥はそのままどぶ川に流した。

 これがほぼ一週間の出来事である。

 はたして、あの「死者の霊に捧げるカホン」の夜に、司祭が死者の霊に代わって私に語ってくれたことは、真実なのだろうか。

 キューバにはこういう諺がある。「真実は、嘘つきが語ったものでも、なんとも信じがたいものだ」と。

 真実とか嘘とか、そうした二分法の思考にとらわれると、ハムレットのように解決策のない泥沼におちこむ。私は真実であれ嘘であれ、ともかく司祭の有り難い言葉を信じることにした。

 

(「死者のいる風景——−ハバナの12月」『ミて 詩と批評』第117号、2011月冬)

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ロベルト・コッシーのキューバ紀行(15)おしゃべりと議論

2015年10月30日 | キューバ紀行

(写真)中央公園の「ホットコーナー」。野球狂たちの議論風景

おしゃべりと議論

  キューバ人は、おしゃべりが大好きだ。

 おしゃべりというより、あるテーマについての議論と言ったほうがいいかもしれない。

 別にあらたまった会議の席ではない。ごくありふれた日常生活のひとときに、興味や信条を共にする者たちが、三、四人以上集まると、この手の議論が始まる。

 内容は政治やスポーツ、芸術、宗教、コンピュータのこと、なんでもござれだが、あちこち別の分野に飛んだりしない。ひとつのテーマについて、休みなく二、三時間やりつづける。

 自分の主張を、声の大きさやセンチメンタルな泣き言ではなく、深い蘊蓄(うんちく)を傾けるながら訴える。

 日本では初等教育から高等教育まで、「ディベート(討論)」という科目がないため、こうした論理的な思考の訓練はおこなわれない。

 そのため、一般的に言って、日本人は情緒に訴えることは得意でも、議論は苦手だ。しかも、日本文化の中には理路整然としたモノの言い方を嫌う風潮がある。論理的な思考に付いていけない者は、それを「屁理屈」や、世間知らずの「学者の物言い」として退けがちだ。往々にしてそうした非理知主義は国粋主義的な思想に結びつきやすい。愛国主義に理由や理屈など、いらないからだ。

 それに対して、キューバ人は理屈が好きだ。たとえば、一九五九年にキューバ革命に成し遂げた革命軍の指導者、フィデル・カストロは、ハバナの革命広場に集まった群衆の前で、数時間に及ぶ演説をおこなったという。

 十九世紀末のスペインからの独立の際に、アメリカに介入を許し、二十世紀はアメリカの属国としての位置を余儀なくされた。アメリカの大企業が進出し、経済的には潤ったが、貧富の差、人種差別、女性差別、教育の不均衡など、癒しがたい社会問題を抱えていた。それを正すための革命だった。そうカストロは革命の意義と正当性を訴えた。

 政治家の演説として、その長さは有名で、党大会で10時間にも及ぶ演説をおこなったり、国連でもダントツの長演説をおこなっている。

 キューバの集会で原稿を見ないで演説するカストロも偉いが、ずっと立ったままで聴いている市民はもっと偉い。よくも飽きずに聴いていられるものだ。

 カストロが議論を得意とするのは、驚くに値いしない。大学時代に法律を学び、弁護士をめざしたカストロは、一九五三年にモンカダ砦(サンティアゴの国軍基地)襲撃に失敗して逮捕されたとき、法廷で、弁護士として自分自身の弁護をおこない、無罪を勝ち取っている。論理立てて議論を進めるだけでなく、必ず歴史的事実と統計的数字を持ち出す、その頭脳の明晰さと記憶力のよさには舌を巻く。

 だが、それはひとりカストロだけの能力ではなさそうだ。

 ハバナの中央公園に行けば、「エスキーナ・カリエンテ(ホットコーナー)」と呼ばれる一角で、プロ野球に関して何時間も口角泡を飛ばして議論している人たちがいる。さながら野球百科事典のような人たちが、持っている知識を最大限に活用して、互いに反対意見の人を論破しようとする。

 だから、キューバ人と議論するには、よほどの勇気と準備がいる。

 キューバとの国交を回復したアメリカの外交官たちは、そのことを思い知るだろう。

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