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3人のデイヴィッド
90年代アメリカ映画というと、デイヴィッドで始まる3人の映画監督が思いうかぶ。
彼らはみな、映像と音だけによって「現実らしさ」を作りだす映画のからくりを敢えて暴露する作品を製作した。
それらは映画のメディア(映像と音)のトリックを利用して、現実と夢の世界、現実と遊び(ゲーム)、
現実と虚構の境界をなし崩しにして、異世界(宇宙・あの世)へ/からの往還を可能にするメタ映画を志向する。
私たちがそれらの映画に目眩(めまい)を覚えるのは、主人公と同じように、
自分が観ているのが往々にして主人公の現実なのか、
それとも夢の世界なのか分からないからだ。
まずデイヴィッド・リンチは、『ブルー・ベルベット』(1986)や『ツインピークス』(1992)で、
アメリカの保守主義の牙城、心臓地帯(ハートランド)のスモールタウンを舞台に、
純朴でありながら思想的には頑迷な住民たちに巣食う病巣を映像化した。
すわなち、ピューリタン社会が抑圧している性衝動(リビドー)の発露を無垢な若者や、
あるいは厳格な父親のなかに見いだした。
彼らは、社会の規範に従って善良にふるまわねばならないという強迫観念(オブセッション)に囚われ、
逆にみずからの内なるリビドーの逆襲に遭い、社会がタブー視しているセックスの虜になる。
リンチの映画において、エロティシズムが新鮮な驚きをもたらすのは、まるでギャンブルで大穴が出るように、
もっともあり得ない登場人物にそれが出現するからだ。
次に、デイヴィッド・クローネンバーグは、『裸のランチ』(1992)で
巨大なゴキブリに変身するタイプライターを特撮で映像化しているが、
そのようなビザールなイメージは、表層の世界から覚醒の世界(もう一つの現実)へと侵入する契機をドラッグに求め、
おりてくる「お告げ」を書き記さねばならないという作家の強迫観念を顕在化したものである。
だが、『ザ・フライ』(1986)の「蠅男」の特撮に比べると、安っぽい感じが否めない。
『ザ・フライ』は、天才的な科学者の禁じられた発明への強迫観念を題材としていて、科学者は無機質のデータだけでなく、
人間や動物などの生物までも電送する画期的な装置の開発に取り組んでいる。
彼は被験者の情報を分析したうえで、新たなる人間や動物へと合成・創造する「タブー」に挑戦するが、
彼自身は装置の中に手違いで入り込んだ蠅と合成してしまう。
科学者の「蠅男」への変身は、一面では実験の「成功」を意味するのだが、科学者自身はその成功を喜べない。
それは、バイオ・テクノノロジー万能主義(技術偏重)への警鐘とも見なせるものだ。
さて、90年代に何があったのか、ここで少しおさらいしておこう。
89年11月にベルリンの壁が崩壊し、91年にはソビエト連邦が崩壊した。
さらに、ブッシュ・シニア時代に中東イラクを舞台にした湾岸戦争があった。
テレビをはじめとするマスメディアは、湾岸戦争を血の流れない戦争として報道した。
まるでテレビゲームのように、砂漠のこちら側から撃ち込まれるミサイル弾、夜空を行き交う花火のような砲弾の映像。
あたかもロボット同士が戦っているだけで、人間の死体がない「クリーンな戦争」のイメージ。
しかし、現実には戦場となったイラクでは、おおぜいの民間人が誤爆されて血を流して死んでいるというのに。
アメリカ文学の世界では、ヴィデオ年代の寵児によるスプラッター文学が話題を呼んだ。
ブレッド・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』(1991)である。
レーガノミックス以降長期にわたるアメリカの好況を呈するウォールストリート、
そこを舞台に暗躍する投資銀行家(インベストメント・バンカー)ベイトマンは、
血みどろのスプラッター・ムーヴィよろしく、ホームレスや女性など弱者を相手に猟奇的な殺人を繰り返す。
エリスのすぐれた点は、一人称の語りでそうした連続殺人犯の世界を構築したことだ。
果たして主人公が殺しを行なっているのか、ただの妄想なのか、わかりにくい。
注意深い読者だけが、「殺人者」の語りの論理的な矛盾に気づき、情報資本主義社会のビジネスエリートの内的な空虚さがわかる仕掛けになっている。
90年代のフェッジファンドによる東アジアや南米の経済を踏みにじった上での、異常なまでのアメリカの好景気、
一人勝ちの浮かれ騒ぎをコミカルな文体で風刺したのは、ジョナサン・フランゼンの小説『コレクションズ』(2001)だ。(註1)
(註1)登場人物の一人で「成功者」のゲイリー(地方銀行の部長)は、このように嘆く。
「まわりを見渡せば成金がごまんといて、みな同じようなことをして豪勢な気分を味わおうとしていている
——正調ヴィクトリア朝様式の家を買い、処女雪の上でスキーをし、シェフと顔見知りになり、足跡のついていない浜辺を歩く。
金のない若いアメリカ人は成金より数は多いが彼らもまたクールなライフスタイルを求めてやまない。
ところが、悲しいかな、とびきり豪勢な気分やクールな気分を味わえる人間は誰もいないというのが現状だ。
なぜなら、平凡な人間がいなくなったからだ。クールでない人間でいるというありがたくない仕事を誰も引き受けないからだ」
(つづく)
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