フィンチャーの90年代
アメリカ90年代を最も的確に表現したのは、デイヴィッド・フィンチャーだろう。
なかでも、『ファイト・クラブ』(1999)は、後期資本主義(情報・消費主義資本主義)の奴隷になり、
過剰にモノに囚われる現代人の姿に焦点を当てる。
主人公のコーネリアスは、「ハイパー消費主義」の強迫観念に取り憑かれ、カタログ・ショッピングで、北欧製のお洒落な家具を買い集め、
ひたすらクールな「ライフスタイル」を追い求める。
だが、少しも心の渇きを癒すことができない。
柵のなかに囚われた羊のみたいに、経済的な支配層の作った消費システムに主体なく囲い込まれているからだ。
そうした囲い地からの解放を、コーネリアスは癌患者の会をはじめとする重病者たちとの接触に見いだす。
さらに、「人間は所有するものに最後に所有される」という、
消費主義の逆説を説く反逆者タイラー・ダーデンの始める秘密結社「ファイト・クラブ」への積極的な関わりのなかに見いだす。(註1)
フィンチャーの映画は、どれも90年代のアメリカ的価値観への反抗・抵抗をしめしている。
『エイリアン3』(1992)は、宇宙から地球への航行中に事故に遭って
救命艇で囚人惑星フィオリーナ<フューリー(怒り)>に不時着する女性リプリーを主人公にしている。
この映画ではエイリアンをアメリカの軍需産業によって開発される生物兵器の素材と見なしており、
それゆえにこの映画に「反=湾岸戦争」のメッセージが隠されているのは明らかだが、
いま私たちはこのエイリアンという存在に原発という寓意を読み取ることはできないだろうか。
というのも、この映画は、人類の<火>への強迫観念をあつかっているからであり、
3・11以降に本作が予想外の意味を帯びてくるのは、刑務所であるこの惑星で服役中の囚人たちが行なっているのが、
原子力発電所で出る核廃棄物を運ぶ容器の材料となる鉛を製造することだからである。
最後にリプリーがみずからの体内に侵入した、
人類を滅ぼす可能性のあるエイリアンもろとも核廃棄物を閉じ込めておく
容器の材料(燃える鉛)のなかへ飛び込んでいくシーンの背後には、
“ストップ・ザ・原発”のメッセージが浮かんでいないだろうか。
『セブン』(1995)には、ジョン・ドゥという理詰めの殺人狂が出てくる。
自分を「選ばれた者」と呼び、キリスト教の7つの「大罪」(註2)を犯していると
彼が考える者たちを一人ずつ処罰してゆく。
「大食」の罪を犯す肥満男、「強欲」の罪を犯し、
金を荒稼ぎする弁護士、見かけだけの美を追い求め「高慢」の罪を犯している女、
「肉欲」の罪を犯す娼婦、「怠惰」をむさぼる男・・・。
殺人狂は言う。「私は罪人に罪をあがなわせた」と。
残る二つの罪、すなわち「憤怒」と「嫉妬」の罪をいったい誰が犯し、
警察に捕まっている犯人がどのように処罰するのか。
この映画で最高のサスペンスが生みだされる。
映画の中で、犯人が犯罪現場に罪の名前と一緒に、たとえば、
ミルトンの『失楽園』から「地獄より光に至る道は、長く険しい」といった一節を遺すのに対して、
ベテランの担当刑事サマーセットは、若い助手のミルズにダンテの浄罪編やカトリシズム辞典を繙くようにアドバイスをする。
犯人は、冷静沈着で、その部屋には殺した者たちの写真を残したり、
ノート2千冊に思いのたけを書き記している。
そのノートは「50人が徹夜で読んでも2ヶ月はかかる」というものだ。
ベテラン刑事サマーセットは、
そうしたキリスト教の罪と悪徳に対する強迫観念に囚われた説教師であるという推測を行なうが、
残る2つの罪を誰がどのように償うのか分からない。
『ゲーム』(1997)も長期好景気にわくアメリカを背景にしている。
主人公は、西海岸サンフランシスコの大富豪のニコラス・ヴァン・オートン。
仕事は『アメリカン・サイコ』の主人公ベイトマンと同じく、
ニコラス自身いわく「金を右から左へ動かして稼ぐ」投資銀行家だ。
しかし、彼は妻エリザベスと離婚したばかりで、大きな屋敷に住み込みの家政婦を雇って、
誕生日の食事もひとりぼっちだ。
彼は「死者」の亡霊につきまとわれている。48歳で亡くなった父親の死に囚われつづけている。(註3)
映画は、ニコラスの弟の依頼によって、
秘密クラブが次々と仕掛ける「ゲーム」にニコラスが翻弄される姿を描くが、
ニコラスは自分に降りかかる災難がただのゲーム(遊び)なのか、それとも現実なのか、
わからなくなってくる。
とりわけ、圧巻なのは、自宅のつけっぱなしになっているテレビで、
ニュースキャスターが彼個人に向けて喋っていると彼が感じ怯えるシーンであり、
それまで携帯電話一本で莫大な金を動かしていた彼が、
個人情報を盗まれて口座からそっくり財産を奪われる恐怖におののくシーンだ。
どの場面でも、どこからが現実でどこからが彼の妄想なのか、彼自身はおろか、観客にもわからない。
かくして、フィンチャーこそは
ミレニアムに向かう90年代の異常な好況に浮かれた後期資本主義のアメリカの病巣をアクチュアルに捉えていたと言える。(了)
(註1)タイラー・ダーデンは「我々は消費者である。ライフスタイルというオブセッションの副産物だ」と、言い当てる。
肉体の限界や死にちかい感覚を実感してこそ、強烈な生の実感が得られるからだ。
(註2)「7つの大罪」というのは、カトリック教会の考えである。カトリックでは、原罪から区別される自罪を大罪と小罪に分ける。
「大罪は魂を神から背けさせ魂から恩恵と永遠の生命を奪うものである」。
トマス・アクィナスによる考察を経て、ダンテは『神曲』の浄罪編の中で、現行の7つの大罪に相当するものを並べた。
(「悪徳」「7つの大罪」『岩波キリスト教辞典』より)。
(註3)というのも、父親はニコラスの少年時代に屋敷の屋根から飛び降りて自殺を図っているからであり、
同じような生き方をしている自分もいつか父親と同じように自殺を図るのでないかという不安に駆られるからだ。
冒頭で、楽しいそうなアウトドア・パーティと父の自殺を撮った目の粗いヴィデオ映像が差し挟まれるが、
少年時代のニコラスの心に焼き付けられた強烈な記憶を暗示している。
(大場正明監修・佐野亨編『90年代アメリカ映画』芸術新聞社、2012年、pp.263-268より)